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小林健(Ken Kobayashi)によるテキスト〜齊藤拓未個展 「流れ落ちる時のなかで」

明るい日陰

 植物は適切な灌水頻度、日照条件、栄養状態を整えてやらねば上手く育たない。特に日照は植物にとって重要な要素であるが、人工的にそれを作り出すことはなかなかに難しい。よって、各々の植物に適した日当たりの場所を探し出す必要があるが、時折、明るい日 陰がふさわしい、とされるものがある。字句通りに捉えるならば、光と影を同時に満たす場所でなくてはならず、矛盾めいたこの明るさは一体どういうものかと戸惑う。レース越しに光が差す室内、木漏れ日の中、短時間だけ日が差し込む場所など、それらしい環境を 想像してみるが、いずれも照度を実測すればかなりの開きがあるはずであり、どれもが正解ではないように思える。いくつかの園芸書を開いて総合してみると、どうやら間接的な陽光によって仄かな明るさを感じるような日陰であるらしいことがわかる。そうと知ってもなお、明るい日陰という言い回しからは依然としてはっきりとした明るさのヴィジョンが掴みにくい。失敗を踏まえた経験に頼るほかないとでも突き放すかのようなこの曖昧さはやはり興味深い。しかし、生殺与奪に関する知見に確証を得ないままにそれと向き合うことが許されるという状況は、歪んだ感情に居場所を与えるようでどうにも座りが悪い。

齊藤拓未《school zone》2023

 齊藤拓未の絵画を初めて目にした時、それとよく似た感情を抱いた。率直に言えば、若干の気まずさを覚えた。齊藤の絵には、他者の日常に向ける密やかな眼差しへの躊躇いと同時に、その抗い難い欲望に服従することへの倒錯的な幸福も感じられたからである。目を向けずにはいられない、という欲求。そこに憧憬、郷愁、慕情などがない交ぜになった複雑な感情が淡く滲んでいる。愛おしむことと弄することとの曖昧な境界で無自覚に揺れ動く子どものような、危ういあどけなさがある。穏やかな階調に整えられた陰影の少ない色彩、丸みを帯びた素朴な輪郭。そして少女たちの何を思うでもないアルカイックな表情は、孤と楕円を組み合わせただけの簡素な目の表現がそう感じさせるのだろう。様式的な描画上の表現は齊藤の窃視的な視線の気まずさを柔らげるレースのように機能しているだろう。『作者の死』[1]とはロラン・バルトのテキスト論1にある通りだが、画家の存在を一時的にでも思慮の外に置いておくことは、鑑賞者にとっては雑音なく作品を感受でき、作品そのものを分析しやすい状況を作る。だが、齊藤の絵はどうかといえばそうもさせてはくれない。決して自らを死に追いやるようなことはせず、目線という自我を露わにしている。その目が何らさもしい感情を含まないことは断言できるが、その窃視的態度にはささやかな暴力性が内在することを否定はしない。齊藤という作者を忘却し、そこに描かれているもののみを純粋に見ようと努力すればするほど、作品に漂う一抹の危うさに同化しそうになってやはり気まずい。これは優しい、しかし見る者を絡めとる畏怖すべき 絵だ。ならば、少しずつ解きほぐしてまずはこの気まずさを手懐けるとしよう。

齊藤拓未《childish》2023

 齊藤は少女たちばかりではなく、誰もいない公園や、木々の風景、小さな玩具なども作品として描いている。まずはそれらの作品について考えてみたい。皆が見過ごしてしまう、あるいは気に留めることなどないような場所や物こそが齊藤の目には非常に魅力的に映るらしい。ふと、少女たちのあのぼんやりとした眼差しの先にある景色を描いているのではないか、と穿った空想も一瞬頭をよぎるが、あれらは少女たちの虚な目線に重ねるにはやや鋭く、言うなれば場所の「地霊」[2]を探すような精神が宿るように思われたのでその考えは捨てた。建築家イグナシ・デ・ソ ラ=モラレスが語った「Terrain Vague」 (空き地)[3]という概念は、都市の空隙に現れ る空き地を意味し、いわゆる放棄地であったり、持て余された場所のことだ。いかに機能的かつ効率的に作られた都市の中であっても、歪みというものは必ずどこかに生まれる。建築や都市計画とはそうした歪 み=空き地を潰していく。ソラ=モラレスは「植民地建設」と表現しているが正にそのようなものだろう。都市という簒奪者から見放されている、もしくは逃げ仰せている束の間の休眠地=「Terrain Vague」を対象とすることで、美術表現は都市に内在する未知を導き出している。齊藤の目も同 じである。人気のない寂れた公園で載せる子どもの姿もなく佇む遊具は、かつてそこにあったはずの賑わいの不在を突きつけるばかりだ。なぜその場所は廃れてしまったのかと、その理由を問うているのではなく、その満たされない場所=「Terrain Vague」に漂う不在と、それによって生ずる未知を描いている。クリスチャン・ノベ ルグ=シュルツが言う「地霊(Genius Loci)」とは、その場所に過去堆積し続けた歴史と精神を文脈として汲む態度のことだが、「Terrain Vague」の未知とは、摩耗した「地霊」が残りわずかばかりの痕跡をとどめている状況だと言える。斎藤はここでは、もはや彼女にしか感知し得ないほどの微弱な「地霊」から感受したイメージを、そっと絵に収めている。

齊藤拓未《知らない広場》2023

 未知であり、曖昧なもの。少女の絵に戻ろう。齊藤は、少女たちを肖像として描いてはいない。彼女たちは「未だ」何者でもない「曖昧」な存在として描かれている。アイドルタイムの少女たちがぼんやりとした表情を浮かべている。しかし、目だ。取り繕うことのな い素顔を無防備に晒している彼女たちの瞳には光がない。何者でもない彼女たちは見られていることを意識していないし、瞳がこちら を向いていたとしても決して「見て」はいない。絵の中の少女たちにとっての不在とは、齊藤であり、私たちである。不在のものと視線が交わろうはずがない。交わらぬのであれば、互いにそれを跳ね返し合うのだろうか?『鏡の国のアリス(Through the Looking- Glass and What Alice Found There)』[4]は、黒猫のキティと白猫のスノードロップの対比的な描写から物語が始まる。二匹の猫の存在は、似ていながらも同一ではないものを生み出す鏡の役割を冒頭から読者の意識に刷り込む。キティとスノードロップはいたずら好き の黒猫と良い子の白猫であるが、鏡の世界では教導的に振る舞う赤の女王とやや精彩を欠く白の女王とに変じて、各々のバランスが反転する。鏡の世界は現実の似姿を映すけれどもやはり違っている。アリスが鏡の世界に入る瞬間、彼女はくるくると部屋中のものを手 鏡に映しながら、キティにその反射する世界を見せて回る。そして、鏡の世界に入った瞬間、そこが現実と異なっていることに気付い て、少女は不安がるどころか嬉々としてはしゃぐ。鏡像の世界は現実そのままを写しとっているようでいて、明らかな別物であるのだ。ヴィクトル・ストイキツァは『影の歴史』の中でプリニウスの『博物誌』以後の先人たちが影や鏡を通して絵画の起源をいかに見 出していこうとしたかを論じていくが、その中で「…いつも、君たちが見ているのと反対の側は、影に覆われている…」とアルベルティの『絵画論』の一節を紹介している[5]。物体に当たる光が遮られることで影が投射されるのであれば、その逆側には反射された光が必ずある。ストイキツァはアルベルティが影を鏡のパラダイムの支配下に置いているとしてやや批判的にこれを引用しているがその意図 とは別にしても、この光と影の鏡合わせの関係性は示唆に富んでいる。視線とは彼我の光の交換であるから、向き合う両者が等しい明 るさを有していればこそ視線は睦まじく交わる。一方の光が強すぎればそれは対象を抉り、収奪するばかりで、その限りにおいて見るという行為は暴力的である。だからこそ、齊藤の絵は常に白んでいる。自らの視線を明るく曇らせている。明るい影が差す。ストイキツァは『影の歴史』序文[6]においてヘーゲルを引いている。光と影は、完全な光でも完全な闇でも認識され得ないという点では同一であり、それぞれに曇らされた光と照らされた闇という相互に作用し合う関係になって始めて両者を弁別する議論が可能となる。いきすぎた光は全てをかき消してしまい、闇も深くなればなるほど全てを飲みこむ。人の目に映る世界はその狭間でほそぼそと成立している。この、人に許された明るさの領域のさらに狭い範囲に齊藤の絵画世界はささやかに存在している。いずれ、そこにまばゆい光が差しこめば、この光景はより眩く映るのかもしれない。しかし、それでは少女たちに向けられていた密やかな齊藤の視線も同様に強くあらねば、彼女たちの姿はきっと光にかき消えてしまうだろう。この密やかな場所に強い光は要らない。気まずさに耐えかねようとも、 この儚くて曖昧な場所に強い眼差しを向けてはならない。ここは社会とか、富とか、政治とか、ギラギラした大人たちが作り出す煩わしい事象の隙間にぽつりと開いた、安全で曖昧な空き地なのだ。何者でもないことが許される。薄明の中では何も見えないふりをすることもまた許されるだろう。齊藤の絵は、明るい日陰の中で存在を許されたものたちを、気付かれないようそっと絵の中に閉じ込めておく。

 

[1] ロラン・バルト「作者の死」、『物語の構造分析』(訳:花輪光)、みすず書房、1979
[2]クリスチャン・ノベルグ=シュルツ『ゲニウス・ロキ 建築の現象学をめざして』(共訳:加藤邦男・田崎裕生)、住まいの図書館出版局、1994
[3]イグナシ・デ・ソラ=モラレス・ルビオー「テラン・ヴァーグ」(訳:田中純),、『Anyplace 場所の諸問題』、NTT出版、1996、pp128-134
[4]ルイス・キャロル『鏡の国のアリス』(画:ヤン・シュヴァンクマイエル / 訳:久美里美)、エスクァイアマガジンジャパン、2006
[5]ヴィクトル・I. ストイキツァ『影の歴史』(訳:岡田温司・西田兼)、平凡社、2008、p.80
[6]ヴィクトル・I. ストイキツァ『影の歴史』(訳:岡田温司・西田兼)、平凡社、2008、p.7

文・小林健

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岡本秀(Shu Okamoto)によるテキスト〜石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」

 

石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」

展覧会ページ
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/

 

前文

2019年から、MIMICというリサーチプロジェクトを企画している。MIMICでは、主メンバーの熊野陽平と共に、身近なアーティストのリサーチとアーカイブを通じて、個人の抱える複雑さを、なるべく形を保ったまま記述していく方法を探っている。
第一回で、石井海音を対象にした由もあって、今回は石井とフカミエリ同時開催個展にテキストを寄せることになった。
余計な前置きになる恐れを承知で、基本的な視座を提示したい。その方が、後の話が伝わりやすいだろう。

ぼくは作家の、個人的な技術が好きだ。作品を通じて、その人ならではの尺度や、その人だからこそ持ちうる、固有の「わかりづらさ」について考えることに、とても関心がある。

たとえば絵画作品において、シャープでキレの良い線を引けることは、高い技術力の証である。しかし、誰もがそうした線を目指すわけではない。もしかすると、ひょろひょろの弱々しい線が、その人にとって絶対に必要なものかもしれない。
単に弱々しいのではない。“この”弱々しい線があり、作家はその固有性に向かっている。それは、新しさや公的評価といった次元とは別のレベルで立ち上がる技術[クオリティ]の問題である。そして、こうした固有の「わかりづらさ」は、一見して類型的だったり、未熟だったりすることはあっても、まず独りよがりなものではない。

とはいえ、そうした個人の技法、価値観は、その人以外の言葉に翻訳できないものかもしれない。あるいは、他人に理解されようとするのを意図的に避ける“必要がある”ものかもしれない。
アーティストの固有性を、強調された個性や構築主義的な文脈ではなく、このような「わかりづらさ」を前提に語る方法を考えたいというのが、ぼくの根本的な問題意識である。

以上の関心を踏まえて、石井とフカミの作品を観ていく。
同時に、現在進行形で活動を続けている以上、作家について確定的なラインを引くこともやはり避けたい。したがって、話はやや留保的になるだろう。

二人展ではなく、同時開催個展なので、二人の作品を無理に関連づけることはせず、個別に書く。1、2階が石井、3階がフカミのセクションという事なので、まずは石井の作品について考えることにしよう。

石井海音個展「warp」

今回、石井はポートレートの絵を展示するという。アトリエを見に行ったら、100号ほどの大きな画面に、いつもの画風で何枚かの人物画と、それを観る少女が描きこまれていた。作品の周りには、大作に描かれた人物画を切り取ってきたような小品が置いてある。
なるほど、画中の人物画が、現実の展示空間に並ぶらしい。これまでも石井は、絵に登場するモチーフを、画中画や他の作品で反復していたから、自然な流れだとぼくは思った。
石井の作品は、複数の要素が乱反射的に絡み合っているため、全体像を語るのが難しい。
それでも、本展に関連して一つ取り出すとしたら、記号と象徴をめぐって考えてみるのが良いかもしれない。

たとえばピーター・ドイグは、舟やグリッドを、描き方、サイズ、あてはめるモチーフなどを入れ替えて、複数の作品にわたって展開する。そうすることで、舟やグリッドのイメージは、ドイグ自身の手で記号化される。舟はドイグの象徴になる。
同様に石井の作品でも、少女の目や、手の指し示し、おばけ、ケンタウロス、チューリップといったイメージが、複数の絵で繰り返し現れる。好きな図像を多用するのは変な話ではないが、画中画や鏡などの参照性の高いモチーフを媒介して、やはり意識的な記号化が行われている。
また、近作における石井の制作態度の変化にも、記号が深く関わっている。たとえば、《鏡2》(2019)では、チューリップは子供の落書きのような造形をしている。まるの周りに放射状の線を引いたら、多くの人が太陽だとわかるように、この場合での記号とは、標識や絵文字に近い意味合いがある。しかし、2021年10月の個展で発表された《バニー・カクタスの日光不足》(2021)では、(チューリップではないが)以前よりも、実感を持って植物が描かれている。この変化について、同年6月のインタビューが思い出される。

記号化して、単調化していくうちにそういう、絶対にやった方がいいことも削ぎ落されていってしまう。それがもっと後の方だったらいいけど、今はまだ絵をかき始めて何年も経ってない。〔中略〕記号っていうのも、逃げに走っちゃう面があるから、気を付けた方がいいのかなって思ってます。
MIMIC「石井海音インタビュー2021」より(〔中略〕は筆者)

ここでは額縁に落ちる影を描くかどうかの話だったけれど、実際の植物が持っている表情を無視して、雰囲気で描くのも、今の石井にとっては「サボり」になるのだろう。もっと絵が上手くなってから、そうした簡略化をするのは良いけど、今はまだ絵を始めたばかりだから、もっと色んなものが描けるようになりたいと。
石井の話はとてもよく分かるし、絵にも良い影響を与えているように見える。加えて、ぼくにはこれが、石井作品における技術的な尺度と、記号/象徴の差異との密接な繋がりを示しているように思える。一つ補助線を引こう。

アレックス・カッツは、1950年代に頭角を現し、イラスト調のポートレートを描くことから、しばしばポップ・アートの作家として位置づけられる。しかし、ロバート・ストーとのインタビューにおいてカッツは、自身は優れた絵を描くことに興味があり、ポップとは全く別の方向を向いていたと述懐する。そうして、ポップ・アートとの違いを二つの方向から説明する。
第一に、カッツは記号 -signと象徴 -symbolの違いを据える。(原文に従い、ここからは英語表記を併せる。)
たとえば「記号-signは、STOP標識なら「止まれ」と言うもので」、それ以外なにも意味しない。
空なら青色。草原なら緑色。そうした、誰の目にも明らかなイメージ、つまり記号-signを用いるのがカッツにとってのポップ・アートであった。一方、自身はもう少し複雑なものに興味があったと言う。
それが象徴 -symbolである。象徴 -symbolは、一つの意味に収束せず、カッツの描く肖像の背後で揺れ動く。「記号 -signよりもずっと可変的な象徴 -symbolを扱う」こと、これがカッツにおける一つ目のテーゼである。
次にカッツは、技術的な基準を持ち出す。big techiniqueというお茶目な言い方(あえて訳したら、「クソでかテクニック」とかだと思う)で、作家独自のものなので、これは直接引用してしまおう。

絵画の行為性 -performanceには興味を持ったよ。ポロックはかなり良かった、けど、ピカソの《Girl Before a Mirror》(1932)を知って、彼がどんなに良く描けるか本当にわかったとき……実際、35歳か40歳くらいまでは、big techniqueなんて身につかないよ、どれだけ良い作家でもね。
ピカソの初期の絵は技巧的だったし、ぼくにとっては、かなり不安定なものだ。彼の偉大なキュビズム絵画でさえ、big techniqueとは言えない。彼が50代になって《Girl Before a Mirror 》を描くと――あれはbig techiniqueだ。ぼくにとっては、まったく素晴らしかったな、あれがぼくのやりたいことだったんだ。

マティスはbig techiniqueを持っている。ぼくは、絵画の適切な鑑賞方法を学ぶのに3、4年かかった。美術学校で、先生が 「マティスを見なさい 」と言ったよ。あんなに上手く描けるわけない!ほんとに、気が遠くなったよ。あれはbig techniqueだった。

だから、それがぼくのマインドセットだ、big techiniqueとsmall technique。こういうマインドは、創造という点でも、ファッションやスタイルという点でも働く。ポップ・ペインティングには素晴らしいものもあるけど、ぼくの目は他のものに向いていたんだ。
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(訳は筆者による)

以前行ったインタビューで、石井は自身の絵を「遠くに投げたい」と言った。絵が何年も残ってほしいことを、遠くに投げる。と表現するのは、石井らしい感覚だと思う。
なにか、現在とは別の時制へと作品を投企するような、主体的なニュアンスが感じ取れる。今、こことは異なる場所へ、賽の目のように、作品は投げ入れられる。
美術館などで普段観る作品は、そうして数々の時代へと投げ出され、なお現在に残ってきたものなのだ。たしかに、人の見る目は変わるし、絵も老いる。それでも、絵画は、原理的には人よりも永い時間に生きている。時間や場所を越えて、ひとは遠い昔の対象と出会っている。
個展につけられたタイトルには、絵画空間の次元を行き来することとともに、そんな風に時空の歪みを耐え抜いてきた絵画に対する、石井の密やかな憧れと願いが感じ取れる。

象徴 -symbolは、「共に/投げること」を語源とする。
カッツがポップ・アートに与えたような意味での記号 -signは、仮の普遍性を持ち、時代の消費と共にあるという点で、同時代 -contemporary(「時を/共にする」)に向けられたものである。象徴 -symbolとは、そうした記号 -signの持つ可能性を打ち鳴らし、別の位相へと投げ出すものなのかもしれない。

石井が「遠くに投げられる」という絵画にはきっと、そのような、象徴 -symbolとしての力と、カッツがbig techiniqueと呼ぶ技術が宿っているのだろう。そして、石井の絵はそこに向かっているのかもしれない。

最後に、石井の作品のなかで、常に目に見えない記号が一つ存在する。それはまなざしである。ドイグが、舟を自己記号化するように、石井は、閉じた目や、うつろな目のモチーフを記号化する。そして、その目は、石井の絵画固有の儚さや暖かさによってアイデンティファイされてもいる。
石井の手で記号化されたまなざしは、鏡や画中画、窓、また時には、身振りや手振り、絞り袋による線を通して、絵の中をさまよう。少女の目(記号)は、そうした視線の存在を、鑑賞者へと投げ返す象徴(シンボル)なのだ。

 

フカミエリ個展「fictional reality.」

画面の第一印象とは裏腹に、フカミほど現実の経験を率直に表現する人をぼくはあまり知らない。
たとえば、「飛び上がるほど驚いた」とき、現実には飛び上がってはいない。しかし、それを絵に描くとしたら、飛び上がった人物を描いた方が、自分の直面した現実感[リアリティ]にかなっているのではないか。
フカミは、そのように直観した現実をほとんど脚色せずに、物語化しようと試みる。
絵の中にフカミが何人もいたり、おばあちゃんの思い出話に自分の姿が投影されたりするのは、それがフカミの内面的な実感[リアリティ]にかなっているからだ。

しかし、現実的な問題だけでは、フカミの作品は片付かない。
フカミの絵に見られるイメージの多くは、遠い記憶の風景や、夢、無意識下に温存された原体験を想起させる。
裸の人物の様子からは、アダムとイヴをはじめとする、人類創生に関する心的イメージと、家族、あなたとわたしといった、親密な空間が紐付けられる。(《追憶》(2022)や、《つむぐ生命》(2021)、《わたしひとりだけ》(2021))
こうして練り上げられた仮想世界を観ていると、まるで、無意識のイメージ(自分の起源)と、原始的なイメージ(世界の起源)が、ひとところで繋がっているような感覚に襲われる。フカミは、死ぬことは帰っていくことだと言う。生と死、自己と他者、それらをひとつながりの循環的なプロセスの内に見ることが、フカミの絵の世界観に関与している。
わたしとあなたはもともと一つだったのか。どこか一つの場所からやって来たのか。
フカミの作品は、そのような世界認識[リアリティ]と現実の経験[リアリティ]が、一つに出会う場所なのである。

複数の時間、複数の地点、複数の世界線が、生きられたものとして一枚の絵に同居するからこそ、フカミの画面は混沌としている。
脳から産出される情景を、なるべく生きた状態で画面に定着させるには、シナプスの伝達速度に限りなく近い速さで作品を仕上げる必要がある。《月がとても綺麗な日》(2022)は2時間程度で描き上げられている。
必然的に、画面には高発色の色彩と、主観性が強調された生々しい筆触があらわになる。人物モチーフの表現が記号的なのも、フォーマリズム的な関心というよりは、身体が捕捉しやすい適度な解像度があるのかもしれない。
また、これらの表現主義的な特徴においては、東慎也や飯田美穂といった同世代の画家とも近い部分がある。ただ、東はよりアイロニカルで偽悪的な表象を、飯田は自己言及性についての自己言及的態度をそれぞれ用いて、文化的な枠組みをメタに見てから、絵画の技術に折り返して行っているような印象がある。
フカミの作品は、そうした文化的規定性へのこだわりがそこまで強くない。微妙な言い方だが、制度的な問題をジャンプして、神話的な問題を扱っている。

それにしても、これだけ素描きに近いと、ドローイングとの違いがほぼなくなってくるのではないか。フカミに尋ねると、実際ほとんど違わないという。むしろ、ドローイングの方が完成されていて、自身の「記憶とリアリティが結びついていることが分かりやすい」らしい。
それではどうして、油絵なのだろうか。フカミの答えを要約すると以下のようになる。

子供の頃から使っていて、手に馴染んだクレヨンで行うドローイングなら、毎回安定したクオリティで出せる。しかし、油絵は、身体性に伴って絵の出来栄えが変わってくる。現実世界は一回きりのことが毎日起こる。その場その場で対応していくしかない。油絵ではそれと同じことが一番出来る。絵の具は流動的で、発色やオイルの伸び方もその都度変わる。生き物には無機顔料を、死んでるものには有機顔料を用いてみたりと、その時々の状況に応じて、使うものも変化するし、それに合わせて、イメージも変わっていく。
(事前インタビューのメモから)

この場合、扱いづらい油絵の具は、外界・他者との接触に見立てられている。そうした他者性を媒介することで、自己・作品は否応なしに変容を要請される。
フカミの主観性[リアリティ]には、あらかじめ他者性が前提されているのだと言える。
この点は重要である。これまでの特徴では、フカミは“自分の”内面世界を描いているように印象付けられる。一方で、フカミはその“自分”を外側から呼び込んでもいる。
展示という公共空間で作品を見せるのだから当然だが、フカミは他者の目が織り込まれた自分というものに自覚的である。フカミの作る物語[リアリティ]は、他者との交渉に開かれた陶酔の隙間にあるのだ。

それでも、こうした主観主義的な絵画形式には、批判も予想される。
ハル・フォスターは、内面的な表現を重視する人々が、特権的に扱う「無意識」の考え方を疑問視する。そして、自己が、そのインスピレーションや動機の段階から、いかに文化的に構築されているかということに対して、表現主義者が無邪気であるか、露悪的に振舞っていると考えている。フォスターによれば、こうした作家が扱う直観的な表現は、既存の美術史によって完全にコード化された類型の一つでしかない。
こうした見解は、表現(あるいは実存)を重んじる芸術家がひとしなみに被ってきた批判である。
実際のところ、フカミの作品は、どこかで見たようなものに映ってしまう危うさもある。
たとえば、個人的な実存や情緒に直接的な形式を与えるという点では、小林正人や杉戸洋、OJUN、イケムラレイコといった先行世代の画家も同じことをしている。これは、あくまでも理念的な部分での連想ではあるが、具体的な表現においても一部言える。たとえばフカミ《灰色の故郷。》(2022)における木の描きぶりは、OJUN展「飛び立つ鳩に、驚く私」、鉛筆のタッチは杉戸の《three roofs》などを彷彿とさせる。
そうした類似性が、たとえば愛や影響の次元で映るか、世界観として劣ったものになってしまうかは、フカミ自身の作品の強度による。一方で、イメージを生のまま定着させる即時性は、どうしても絵を記号的に荒く留めてしまう可能性もある。先のテキストで石井が述べているように、記号化は単調化にも通じている。そこで、技術的着地点をどこに持っていくかは難しい問題なのではないか。これは《思い出したら》(2022)に出てくるネコが、ぱっと見て、ネコと分かりづらかったり、花の活き活きとしたそよぎが、いまいち伝わらない、という単純な話である。フカミのリアリティが十分表現出来ているから良いのか、それとも万人にわかるように描けた方が良いのかはわからない。しかし、エドヴァルド・ムンクでも、シャガールでも、ミリアム・カーンでも、ちゃんといい塩梅で描くような気がする。
とはいえ、フカミ自身は既に方向を定めているのかもしれない。人物の描きぶりには変化が起こっている。はじめは意識して記号的に描こうとしていたものが(《SUKI》(2022))、少しずつ顔に表情が付いたり、装飾品が付いたりして、豊かになっているのだ。
ぼくの疑問に留まらず、フォスターの批判も、フカミは簡単に乗り越えてしまうだろう。

さて、本稿でぼくは、リアリティを、現実感や世界認識と、いろいろ読み下した。
フカミに、リアリティを自分で訳すとしたら何になると思うか聞くと、「混沌」と返ってきた。「真実」と迷っていたので、今日聞いたら全然別の答えが返ってくるかもしれない。けれど、「混沌」はとてもよくわかる。
フカミの経験した現実は、内面的な実感と、世界への認識と、記憶によって混ざりあい、絵の具やキャンバスという外界との接触を通じて、一つの物語世界を作り出す。
一つの平面世界に、複数の生[リアリティ]が生きられる。
たしかに、混沌[リアリティ]だ。

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biscuit gallery1周年に寄せて〜奥岡新蔵氏によるテキスト

「アーティストが表現者であるように、ギャラリーもまた表現者である」と筆者は信じているタイプなのですが、その意味でいうと、それがどういったものであるかは後述するとして、今回こうして1周年を迎えたbiscuit galleryの軌跡を振り返ると、そこにもまた一つの表現、創造、あるいは信念のアウトプットのようなものが見出せるように思えます。

アーティストは主には作品によって自らのアイデンティティを示しますが、ではギャラリーの個性とはどこに宿っているのか、何が彼ら/彼女らを他と線引きし、際立たせ、特徴付け、そしてそれはどのように表現されるのでしょうか。もちろん答えは人それぞれでしょうけれど、とはいえ一つだけ例を挙げるなら、それはオーナーもしくはディレクターの審美眼というか、アーティストを選ぶにあたって働くレギュレーションの有無であり、また展覧会という場所をクリエイトすることによってこそではないかと考えます。

では、数ある若手ギャラリーのうち、なかでもbiscuit galleryのIDとはいったい何か。少し婉曲に言うなら、それは時代に対する貪欲さのように思います。現在進行形で形成され、展開されている日本のアートシーンを捉え、分析し、マッピングすること、しかもそれらを大きなスケールと速度でやってのける行動の根っこにある貪欲さこそ、biscuit galleryの魅力であり強さの由来のように思うのです。「今、この時代にはどんなアーティストがいるのか?」という純粋無垢な問いから歩みをスタートさせる、言わば時代と呼応しながらスタイル・メイクをするこのギャラリーの守備範囲は、だからこそ一見すると一つのギャラリーが抱えるには手に余るほどに広く見えますが、とはいえそれは無作法の所業ではなく、もう少し視点を高くすると違って見えて来るように思います。

たとえば、2000年代初頭の中国で生まれたVitamin Creative Spaceというプレイヤーがいます。このスペースは中国の伝統的な哲学・思想・文化と現代美術の関係をスタディし、マッシュアップさせた活動を展開させ、今やスペース自身もそこからキャリアをスタートさせたアーティストも国際的なステージに立つほどになりました。先ほどの「もう少し高い視点」とは、つまりこのプレイヤーが持っているような世界観であり、言い換えるならば、グローバルな世界とローカルな自分自身の関係性を俯瞰できるポイントのことです。

現在、私たちの世界観は一見すると非常にシームレスになり、ボーダレスになり、グローバルという一つのマス・ソサエティーへ再定義されつつあるように思います。80年代からエドワード・サイードらの言説によって多様性の議論は醸造され、ネットカルチャーやメタバース的な発想は質量に隔たれた世界から新しい統合的な場所性を示唆し、または地球規模の課題の登場などによって「海の向こうの世界」もしくは「私たちとは関係がなかった(ように見えた)世界」との繋がりが生まれるなど、いろいろなことの積み重ねによって私たちは新たに「グローバルな世界で生きている私たち」という人称を獲得している、というふうに筆者は感じます。

だからこそ、何をするにも、今や世界的な水準やルールが求められがちです。そして、その「大きな世界観」の認識必要性は、きっとアートも同じなのでしょう。現代美術は間違いなく西欧を拠点に生まれ、広がり、保たれている領域ですが、とはいえ門戸自体は非西欧圏にももちろん開かれ、今やグローバル(=西欧圏)とローカル(=非西欧圏)の距離は以前よりもずっと近づいたと言えるでしょう。では、そんなより大きなステージに立つとき、そして日本人という立場から美術に関わるときにはどんなアティチュードが必要になるでしょうか。思うに、西欧のプレイヤーから学び過ぎることはかなずしも利益ばかりでないように感じます。世界へ足を一歩か二歩進めたとき、そこにはすでに無数のプレイヤーがおり、彼ら/彼女らは分厚い、長い時間をかけてエディットされてきた自分たちの(つまり西欧人の)美術の歴史という地面にしっかりと足を支えられ、かつ話の全てはそれに沿って進んでいることに気がつくはずです。要するに、たとえその気がなくとも、西欧のプレイヤーから学ぶことが多ければ多いほど、あるいはそれを行動に移せば移すほど、それは単なる「向こうの人たち」のイミテーションとして認識されてしまう可能性が高いように懸念するのです。

だいぶ逸れてしまいましたが、しかし話はbiscuit galleryの表現性、またそのアーティスト・セレクトの幅の広さであったと思います。先の話を踏まえると、アートのプレイヤーに必要なことの一つは「大きな世界観」の認識です。そして、その次には、思うにポジショニングの確認でしょう。日本というローカルにいること、あくまでも世界の一部分に過ぎない場所にいることの自覚であり、また「大きな世界で戦うため、自分が持っているもののうちで活かせるものはいったい何か」という問いでしょう。周りくどくて恐縮ですが、言いたいのは、biscuit galleryのこの1年の活動はある種のエクスプローラではないか、ということです。

より大きな世界で戦おうとするとき、またそのための準備をしようとするとき、これまでの話の通り必要なのは身の回りの世界を知ることです。そしてギャラリストの仕事とは、その多くがアーティストとともに実現されます。「世界のアートシーンにいくため、まずは今の時代の自国のアート、アーティストを知る」というPoC的なアクションが、この1年を通してbiscuit galleryが実践してきたことのように思うのです。先ほどの「時代に対する貪欲さ」とは、つまり、自分が生きている時代とそこにいるアーティストを徹底的にスタディするためのエネルギーに他なりません。冒頭のフレーズに戻ると、もはや言わずもがなかもしれませんが、biscuit galleryが描いているのはこの国の、そしてこの時代の現代美術という、あまりにも王道的なテーマに基づいたものであると、筆者はそのように考えています。

奥岡新蔵

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NEWS Note

【Art×Fashion】アートコレクター柵木頼人氏によるアーティストコラボ企画「mm’s」

mm’s

アートコレクター柵木頼人氏が届ける、良質な素材でアーティストとのコラボTシャツを制作しているブランド「mm’s(ミリズ)」。

2019年に制作されたコラボ企画のうち、やましたあつこ、ならびに平子雄一のアーティストTシャツを販売いたします。

※biscuit gallery内での限定販売となります。

 

Quality

国内最高峰の技術を要して作成したオリジナルTシャツです。

生地を織り成す糸を選定する所からはじめる事で、 キャンバスの様なしっかりとした質感と肌触りのよさを実現し、 Tシャツが身体との距離感を保ちつつもフィットする様に考慮されたシルエットは 一つの作品を思わせる美しさです。

 

 

僕は洋服を作る仕事を長い事しています。


コレクターとしてアートの世界と向き合う中で、よく見るアーティストグッズのTシャツのクオリティーに違和感を感じていました。


アーティストの、作品は素晴らしいのにこのTシャツだと勿体無いなと感じる事が多々あり、僕の背景を生かして何か出来ないかと思う中でアーティストに対するリスペクトを込めて高品質のTシャツを企画させて頂きました。


作品を纏う様に着用して楽しんで頂けたら嬉しいです。

どうぞよろしくお願い致します。  柵木

Artists

平子雄一 Yuichi Hirako

平子雄一×mm’s コラボTシャツ

平子雄一×mm’s コラボTシャツ

証明書(直筆サイン・エディションナンバー)

やましたあつこ Atsuko Yamashita

第1弾として、やましたあつこが書き下ろした油彩作品の世界感を忠実に表す為に 6枚の版を使いシルクスクリーンで表現しました

やましたあつこ×mm’s コラボTシャツ

やましたあつこ×mm’s コラボTシャツ

Size

 

概要

mm’s(ミリズ)

平子雄一 Yuichi Hirako コラボTシャツ(2019)
・証明書(直筆サイン・エディションナンバー)

各サイズ×10枚限定生産
S size(66×103×41.5)※sold out
M size(69×108×44)※sold out
L size(72×113×46.5)※sold out

やましたあつこ Atsuko Yamashita コラボTシャツ(2019)
・水彩ドローイング付
・証明書(直筆サイン・エディションナンバー)

各サイズ×10枚限定生産
S size(66×103×41.5)※sold out
M size(69×108×44)※sold out
L size(72×113×46.5)※sold out

※本商品は、ギャラリー内でのみ販売対応いたします。数に限りがございます。

カテゴリー
Note

【Review】服部芽生(Mei Hattori)国内初展示に寄せて

服部芽生は鎌倉在住の若手写真家だ。

今回ビスケットギャラリーのオープニング展「biscuit gallery Opening Exhibition Ⅱ」にて国内では初となる展示を行った。

展示風景

展示されている作品は《Shake》、《浸食/Erosion》、《House》の3点と、〈デジャヴ/Deja Vu〉シリーズ、本年の新作〈Became Blue〉シリーズの計15点。
これまでウェブサイト上で見てきた彼女の作品とは異なる、新たな表現への試みがなされており見ごたえのある展示となっていた。

展示風景

服部芽生《House》 発色現像方式印画・パネル 2020年 560mm×457mm

「なんでも好きなものを撮ると良いよ」と7歳の誕生日に渡されたのがカメラとの出会い。以来、26歳になる現在までシャッターを切り続けてきた服部。作品制作にはフィルムカメラを使っている。

今、スマートフォンで撮影して、その場で撮影した写真を確認するのは日常的な行為になっている。一方、フィルムカメラでの撮影は、写真を確認するまで手間と時間がかかる撮影方法である。暗室でフィルムを現像液につけてはじめて撮影した像が浮かび上がり、その後に複数の工程を経て、ようやくプリントできる段階になるのだ。

彼女は、現像までの工程を経て、そのときに撮影時の記憶や感情が蘇ってくる感覚を大事にしたいのだという。昨年自宅に現像室を作り、より一層作品制作のプロセスや技法にもこだわるようになったそうだ。

そして、現像後の写真には、トリミングも画像ソフトでの修正も行わない。それは写真は真実を写すものであってほしいと思っているからだという。使用するカメラやフィルムの個性を考慮し、構図を考えて撮るのは勿論のこと、撮影までにも時間をかけ、何度も同じ場所に出向いて、その場所の移り変わりを撮る。その場所の変化とともに、自分の心情の変化を写したいと思い制作しているそうだ。

彼女が真摯に被写体に向き合う眼差しは、作品をみれば伝わってくるだろう。

最初に展示されている「揺れる/Shake」、「浸食/Erosion」、「House」は彼女が得意とするスナップショットに分類される作品だろう。

そっぽを向いて丸まった少女を優しく包む光。空を覆い尽くすように伸びた生命力を感じる木の枝。
歩き慣れた散歩道や子供に向ける、彼女のあたたかい眼差しが感じられる作品だ。
なかでも、「House」は花咲く生け垣のある家の屋根の形に重なって、幾重に連なる電線が画面に反響する緊張感が捉えられている一方で、ぽつんと生け垣を見つめる男性の存在がこの写真に非日常的な印象を与えており面白く感じた。

展示風景〜《デジャヴ/Deja Vu》シリーズ

次に展示されているのは、一転して雰囲気の変わる〈デジャヴ/Deja Vu〉シリーズ。
これらの作品は撮影から現像まで数ヶ月期間をあけ、撮影した瞬間の記憶や感情を曖昧にさせて、撮影した記憶がおぼろな写真を選び取った作品だ。

服部芽生「デジャヴ/Deja Vu》 インクジェット 2020年 420mm×297mm

服部芽生《デジャヴ/Deja Vu》 インクジェット 2020年 420mm×297mm

記録に残っているのに、彼女の記憶には残らなかった写真は、しんと静かだ。

じっと見つめていると、ただ一人でこの光景に投げ出されるような感覚がする作品群。
撮影者の眼差しや感情というのは、記憶を通して写真上に再現されていくのかと考えさせられた。

最後に展示されたのは、今年の新作〈Became Blue〉シリーズ。
鮮やかな青色の画面から浮かび上がる、ほっそりした白い光や、連なる山々のかたち。一見すると青い絵の具で描かれた絵画のようだが、これらも写真作品だ。現代ではあまり馴染みがないが、写真表現にはカメラを用いないものがある。

〈Became Blue〉シリーズは写真の古典技法のひとつのサイアノタイプと呼ばれる方法で制作されている。日本では青写真と呼ばれたものだ。建築図面の複写に長く使われた方法で、そこから意味が転じていき、将来の計画などを指して青写真というようになった。

服部芽生《Became Blue No.17》 サイアノタイプ 2021年 230mm×300mm

実際どのように制作されたのかというと、No.13は特殊な薬液を塗った印画紙の上に流木を置き日光にあてたもので、No.14は印画紙を海の波を時間差をつけてあてたもの、No.17は印画紙を草むらに置いて草花の影が風でゆらめく様子を写し取ったものだそう。

服部芽生《Became Blue No.14》 サイアノタイプ 2021年 130mm×130mm

服部芽生《Became Blue No.13》 サイアノタイプ 2021年 130mm×130mm

紙の上に閉じ込められた海の音や、風のゆらめき、その時間を感じられる作品となっている。

もともと、実験的な写真に興味があったという服部。
今後はサイアノタイプの他に、ガムプリントやケミグラムで制作を行いたいという。

ガムプリントは、20世紀末にまだ芸術として認められていなかった写真の芸術性を確立するために、絵画的な写真を目指したピクトリアリズムの動きの中で広く使われた代表的な印画方法で、ケミグラムは現像液や定着液を用いて印画紙に絵を描くように表現する方法だ。日本ではケミグラムを用いて作られた作品は殆ど認知されておらず、珍しい手法となる。

一体どのような作品ができるのか興味深く、今後の作品発表が待ち遠しい。

Photo:Ujin Matsuo

 

櫻井千夏
Chinatsu Sakurai