石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」
展覧会ページ
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/
前文
2019年から、MIMICというリサーチプロジェクトを企画している。MIMICでは、主メンバーの熊野陽平と共に、身近なアーティストのリサーチとアーカイブを通じて、個人の抱える複雑さを、なるべく形を保ったまま記述していく方法を探っている。
第一回で、石井海音を対象にした由もあって、今回は石井とフカミエリ同時開催個展にテキストを寄せることになった。
余計な前置きになる恐れを承知で、基本的な視座を提示したい。その方が、後の話が伝わりやすいだろう。
ぼくは作家の、個人的な技術が好きだ。作品を通じて、その人ならではの尺度や、その人だからこそ持ちうる、固有の「わかりづらさ」について考えることに、とても関心がある。
たとえば絵画作品において、シャープでキレの良い線を引けることは、高い技術力の証である。しかし、誰もがそうした線を目指すわけではない。もしかすると、ひょろひょろの弱々しい線が、その人にとって絶対に必要なものかもしれない。
単に弱々しいのではない。“この”弱々しい線があり、作家はその固有性に向かっている。それは、新しさや公的評価といった次元とは別のレベルで立ち上がる技術[クオリティ]の問題である。そして、こうした固有の「わかりづらさ」は、一見して類型的だったり、未熟だったりすることはあっても、まず独りよがりなものではない。
とはいえ、そうした個人の技法、価値観は、その人以外の言葉に翻訳できないものかもしれない。あるいは、他人に理解されようとするのを意図的に避ける“必要がある”ものかもしれない。
アーティストの固有性を、強調された個性や構築主義的な文脈ではなく、このような「わかりづらさ」を前提に語る方法を考えたいというのが、ぼくの根本的な問題意識である。
以上の関心を踏まえて、石井とフカミの作品を観ていく。
同時に、現在進行形で活動を続けている以上、作家について確定的なラインを引くこともやはり避けたい。したがって、話はやや留保的になるだろう。
二人展ではなく、同時開催個展なので、二人の作品を無理に関連づけることはせず、個別に書く。1、2階が石井、3階がフカミのセクションという事なので、まずは石井の作品について考えることにしよう。
石井海音個展「warp」
今回、石井はポートレートの絵を展示するという。アトリエを見に行ったら、100号ほどの大きな画面に、いつもの画風で何枚かの人物画と、それを観る少女が描きこまれていた。作品の周りには、大作に描かれた人物画を切り取ってきたような小品が置いてある。
なるほど、画中の人物画が、現実の展示空間に並ぶらしい。これまでも石井は、絵に登場するモチーフを、画中画や他の作品で反復していたから、自然な流れだとぼくは思った。
石井の作品は、複数の要素が乱反射的に絡み合っているため、全体像を語るのが難しい。
それでも、本展に関連して一つ取り出すとしたら、記号と象徴をめぐって考えてみるのが良いかもしれない。
たとえばピーター・ドイグは、舟やグリッドを、描き方、サイズ、あてはめるモチーフなどを入れ替えて、複数の作品にわたって展開する。そうすることで、舟やグリッドのイメージは、ドイグ自身の手で記号化される。舟はドイグの象徴になる。
同様に石井の作品でも、少女の目や、手の指し示し、おばけ、ケンタウロス、チューリップといったイメージが、複数の絵で繰り返し現れる。好きな図像を多用するのは変な話ではないが、画中画や鏡などの参照性の高いモチーフを媒介して、やはり意識的な記号化が行われている。
また、近作における石井の制作態度の変化にも、記号が深く関わっている。たとえば、《鏡2》(2019)では、チューリップは子供の落書きのような造形をしている。まるの周りに放射状の線を引いたら、多くの人が太陽だとわかるように、この場合での記号とは、標識や絵文字に近い意味合いがある。しかし、2021年10月の個展で発表された《バニー・カクタスの日光不足》(2021)では、(チューリップではないが)以前よりも、実感を持って植物が描かれている。この変化について、同年6月のインタビューが思い出される。
記号化して、単調化していくうちにそういう、絶対にやった方がいいことも削ぎ落されていってしまう。それがもっと後の方だったらいいけど、今はまだ絵をかき始めて何年も経ってない。〔中略〕記号っていうのも、逃げに走っちゃう面があるから、気を付けた方がいいのかなって思ってます。
MIMIC「石井海音インタビュー2021」より(〔中略〕は筆者)
ここでは額縁に落ちる影を描くかどうかの話だったけれど、実際の植物が持っている表情を無視して、雰囲気で描くのも、今の石井にとっては「サボり」になるのだろう。もっと絵が上手くなってから、そうした簡略化をするのは良いけど、今はまだ絵を始めたばかりだから、もっと色んなものが描けるようになりたいと。
石井の話はとてもよく分かるし、絵にも良い影響を与えているように見える。加えて、ぼくにはこれが、石井作品における技術的な尺度と、記号/象徴の差異との密接な繋がりを示しているように思える。一つ補助線を引こう。
アレックス・カッツは、1950年代に頭角を現し、イラスト調のポートレートを描くことから、しばしばポップ・アートの作家として位置づけられる。しかし、ロバート・ストーとのインタビューにおいてカッツは、自身は優れた絵を描くことに興味があり、ポップとは全く別の方向を向いていたと述懐する。そうして、ポップ・アートとの違いを二つの方向から説明する。
第一に、カッツは記号 -signと象徴 -symbolの違いを据える。(原文に従い、ここからは英語表記を併せる。)
たとえば「記号-signは、STOP標識なら「止まれ」と言うもので」、それ以外なにも意味しない。
空なら青色。草原なら緑色。そうした、誰の目にも明らかなイメージ、つまり記号-signを用いるのがカッツにとってのポップ・アートであった。一方、自身はもう少し複雑なものに興味があったと言う。
それが象徴 -symbolである。象徴 -symbolは、一つの意味に収束せず、カッツの描く肖像の背後で揺れ動く。「記号 -signよりもずっと可変的な象徴 -symbolを扱う」こと、これがカッツにおける一つ目のテーゼである。
次にカッツは、技術的な基準を持ち出す。big techiniqueというお茶目な言い方(あえて訳したら、「クソでかテクニック」とかだと思う)で、作家独自のものなので、これは直接引用してしまおう。
絵画の行為性 -performanceには興味を持ったよ。ポロックはかなり良かった、けど、ピカソの《Girl Before a Mirror》(1932)を知って、彼がどんなに良く描けるか本当にわかったとき……実際、35歳か40歳くらいまでは、big techniqueなんて身につかないよ、どれだけ良い作家でもね。
ピカソの初期の絵は技巧的だったし、ぼくにとっては、かなり不安定なものだ。彼の偉大なキュビズム絵画でさえ、big techniqueとは言えない。彼が50代になって《Girl Before a Mirror 》を描くと――あれはbig techiniqueだ。ぼくにとっては、まったく素晴らしかったな、あれがぼくのやりたいことだったんだ。
マティスはbig techiniqueを持っている。ぼくは、絵画の適切な鑑賞方法を学ぶのに3、4年かかった。美術学校で、先生が 「マティスを見なさい 」と言ったよ。あんなに上手く描けるわけない!ほんとに、気が遠くなったよ。あれはbig techniqueだった。
だから、それがぼくのマインドセットだ、big techiniqueとsmall technique。こういうマインドは、創造という点でも、ファッションやスタイルという点でも働く。ポップ・ペインティングには素晴らしいものもあるけど、ぼくの目は他のものに向いていたんだ。
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(訳は筆者による)
以前行ったインタビューで、石井は自身の絵を「遠くに投げたい」と言った。絵が何年も残ってほしいことを、遠くに投げる。と表現するのは、石井らしい感覚だと思う。
なにか、現在とは別の時制へと作品を投企するような、主体的なニュアンスが感じ取れる。今、こことは異なる場所へ、賽の目のように、作品は投げ入れられる。
美術館などで普段観る作品は、そうして数々の時代へと投げ出され、なお現在に残ってきたものなのだ。たしかに、人の見る目は変わるし、絵も老いる。それでも、絵画は、原理的には人よりも永い時間に生きている。時間や場所を越えて、ひとは遠い昔の対象と出会っている。
個展につけられたタイトルには、絵画空間の次元を行き来することとともに、そんな風に時空の歪みを耐え抜いてきた絵画に対する、石井の密やかな憧れと願いが感じ取れる。
象徴 -symbolは、「共に/投げること」を語源とする。
カッツがポップ・アートに与えたような意味での記号 -signは、仮の普遍性を持ち、時代の消費と共にあるという点で、同時代 -contemporary(「時を/共にする」)に向けられたものである。象徴 -symbolとは、そうした記号 -signの持つ可能性を打ち鳴らし、別の位相へと投げ出すものなのかもしれない。
石井が「遠くに投げられる」という絵画にはきっと、そのような、象徴 -symbolとしての力と、カッツがbig techiniqueと呼ぶ技術が宿っているのだろう。そして、石井の絵はそこに向かっているのかもしれない。
最後に、石井の作品のなかで、常に目に見えない記号が一つ存在する。それはまなざしである。ドイグが、舟を自己記号化するように、石井は、閉じた目や、うつろな目のモチーフを記号化する。そして、その目は、石井の絵画固有の儚さや暖かさによってアイデンティファイされてもいる。
石井の手で記号化されたまなざしは、鏡や画中画、窓、また時には、身振りや手振り、絞り袋による線を通して、絵の中をさまよう。少女の目(記号)は、そうした視線の存在を、鑑賞者へと投げ返す象徴(シンボル)なのだ。
フカミエリ個展「fictional reality.」
画面の第一印象とは裏腹に、フカミほど現実の経験を率直に表現する人をぼくはあまり知らない。
たとえば、「飛び上がるほど驚いた」とき、現実には飛び上がってはいない。しかし、それを絵に描くとしたら、飛び上がった人物を描いた方が、自分の直面した現実感[リアリティ]にかなっているのではないか。
フカミは、そのように直観した現実をほとんど脚色せずに、物語化しようと試みる。
絵の中にフカミが何人もいたり、おばあちゃんの思い出話に自分の姿が投影されたりするのは、それがフカミの内面的な実感[リアリティ]にかなっているからだ。
しかし、現実的な問題だけでは、フカミの作品は片付かない。
フカミの絵に見られるイメージの多くは、遠い記憶の風景や、夢、無意識下に温存された原体験を想起させる。
裸の人物の様子からは、アダムとイヴをはじめとする、人類創生に関する心的イメージと、家族、あなたとわたしといった、親密な空間が紐付けられる。(《追憶》(2022)や、《つむぐ生命》(2021)、《わたしひとりだけ》(2021))
こうして練り上げられた仮想世界を観ていると、まるで、無意識のイメージ(自分の起源)と、原始的なイメージ(世界の起源)が、ひとところで繋がっているような感覚に襲われる。フカミは、死ぬことは帰っていくことだと言う。生と死、自己と他者、それらをひとつながりの循環的なプロセスの内に見ることが、フカミの絵の世界観に関与している。
わたしとあなたはもともと一つだったのか。どこか一つの場所からやって来たのか。
フカミの作品は、そのような世界認識[リアリティ]と現実の経験[リアリティ]が、一つに出会う場所なのである。
複数の時間、複数の地点、複数の世界線が、生きられたものとして一枚の絵に同居するからこそ、フカミの画面は混沌としている。
脳から産出される情景を、なるべく生きた状態で画面に定着させるには、シナプスの伝達速度に限りなく近い速さで作品を仕上げる必要がある。《月がとても綺麗な日》(2022)は2時間程度で描き上げられている。
必然的に、画面には高発色の色彩と、主観性が強調された生々しい筆触があらわになる。人物モチーフの表現が記号的なのも、フォーマリズム的な関心というよりは、身体が捕捉しやすい適度な解像度があるのかもしれない。
また、これらの表現主義的な特徴においては、東慎也や飯田美穂といった同世代の画家とも近い部分がある。ただ、東はよりアイロニカルで偽悪的な表象を、飯田は自己言及性についての自己言及的態度をそれぞれ用いて、文化的な枠組みをメタに見てから、絵画の技術に折り返して行っているような印象がある。
フカミの作品は、そうした文化的規定性へのこだわりがそこまで強くない。微妙な言い方だが、制度的な問題をジャンプして、神話的な問題を扱っている。
それにしても、これだけ素描きに近いと、ドローイングとの違いがほぼなくなってくるのではないか。フカミに尋ねると、実際ほとんど違わないという。むしろ、ドローイングの方が完成されていて、自身の「記憶とリアリティが結びついていることが分かりやすい」らしい。
それではどうして、油絵なのだろうか。フカミの答えを要約すると以下のようになる。
子供の頃から使っていて、手に馴染んだクレヨンで行うドローイングなら、毎回安定したクオリティで出せる。しかし、油絵は、身体性に伴って絵の出来栄えが変わってくる。現実世界は一回きりのことが毎日起こる。その場その場で対応していくしかない。油絵ではそれと同じことが一番出来る。絵の具は流動的で、発色やオイルの伸び方もその都度変わる。生き物には無機顔料を、死んでるものには有機顔料を用いてみたりと、その時々の状況に応じて、使うものも変化するし、それに合わせて、イメージも変わっていく。
(事前インタビューのメモから)
この場合、扱いづらい油絵の具は、外界・他者との接触に見立てられている。そうした他者性を媒介することで、自己・作品は否応なしに変容を要請される。
フカミの主観性[リアリティ]には、あらかじめ他者性が前提されているのだと言える。
この点は重要である。これまでの特徴では、フカミは“自分の”内面世界を描いているように印象付けられる。一方で、フカミはその“自分”を外側から呼び込んでもいる。
展示という公共空間で作品を見せるのだから当然だが、フカミは他者の目が織り込まれた自分というものに自覚的である。フカミの作る物語[リアリティ]は、他者との交渉に開かれた陶酔の隙間にあるのだ。
それでも、こうした主観主義的な絵画形式には、批判も予想される。
ハル・フォスターは、内面的な表現を重視する人々が、特権的に扱う「無意識」の考え方を疑問視する。そして、自己が、そのインスピレーションや動機の段階から、いかに文化的に構築されているかということに対して、表現主義者が無邪気であるか、露悪的に振舞っていると考えている。フォスターによれば、こうした作家が扱う直観的な表現は、既存の美術史によって完全にコード化された類型の一つでしかない。
こうした見解は、表現(あるいは実存)を重んじる芸術家がひとしなみに被ってきた批判である。
実際のところ、フカミの作品は、どこかで見たようなものに映ってしまう危うさもある。
たとえば、個人的な実存や情緒に直接的な形式を与えるという点では、小林正人や杉戸洋、OJUN、イケムラレイコといった先行世代の画家も同じことをしている。これは、あくまでも理念的な部分での連想ではあるが、具体的な表現においても一部言える。たとえばフカミ《灰色の故郷。》(2022)における木の描きぶりは、OJUN展「飛び立つ鳩に、驚く私」、鉛筆のタッチは杉戸の《three roofs》などを彷彿とさせる。
そうした類似性が、たとえば愛や影響の次元で映るか、世界観として劣ったものになってしまうかは、フカミ自身の作品の強度による。一方で、イメージを生のまま定着させる即時性は、どうしても絵を記号的に荒く留めてしまう可能性もある。先のテキストで石井が述べているように、記号化は単調化にも通じている。そこで、技術的着地点をどこに持っていくかは難しい問題なのではないか。これは《思い出したら》(2022)に出てくるネコが、ぱっと見て、ネコと分かりづらかったり、花の活き活きとしたそよぎが、いまいち伝わらない、という単純な話である。フカミのリアリティが十分表現出来ているから良いのか、それとも万人にわかるように描けた方が良いのかはわからない。しかし、エドヴァルド・ムンクでも、シャガールでも、ミリアム・カーンでも、ちゃんといい塩梅で描くような気がする。
とはいえ、フカミ自身は既に方向を定めているのかもしれない。人物の描きぶりには変化が起こっている。はじめは意識して記号的に描こうとしていたものが(《SUKI》(2022))、少しずつ顔に表情が付いたり、装飾品が付いたりして、豊かになっているのだ。
ぼくの疑問に留まらず、フォスターの批判も、フカミは簡単に乗り越えてしまうだろう。
さて、本稿でぼくは、リアリティを、現実感や世界認識と、いろいろ読み下した。
フカミに、リアリティを自分で訳すとしたら何になると思うか聞くと、「混沌」と返ってきた。「真実」と迷っていたので、今日聞いたら全然別の答えが返ってくるかもしれない。けれど、「混沌」はとてもよくわかる。
フカミの経験した現実は、内面的な実感と、世界への認識と、記憶によって混ざりあい、絵の具やキャンバスという外界との接触を通じて、一つの物語世界を作り出す。
一つの平面世界に、複数の生[リアリティ]が生きられる。
たしかに、混沌[リアリティ]だ。
Kaion Ishii Solo Exhibition “warp” / Fukami Eri Solo Exhibition “fictional reality.”
Exhibition Page
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/
Preface
Since 2019, I have been planning a research project called MIMIC. Through MIMIC, together with core member Yohei Kumano, I am exploring methods to describe the complexity that individuals carry, while preserving form as much as possible, through research and archiving of nearby artists.
Given that Kaion Ishii was the subject of the first project, this time I am contributing text to simultaneous solo exhibitions by Ishii and Fukami Eri.
Aware that this risks becoming unnecessary preamble, I would like to present a basic viewpoint. This will make the subsequent discussion easier to convey.
I love an artist’s personal technique. Through their work, I am very interested in thinking about that person’s unique scale, and the specific “incomprehensibility” that only that person can possess.
For example, in painting, the ability to draw sharp, clean lines is evidence of high technical skill. However, not everyone pursues such lines. Perhaps a thin, weak line is absolutely necessary for that person.
It is not simply weak. There is “this” weak line, and the artist is directed toward its specificity. This is a matter of technique [quality] that emerges at a level distinct from dimensions of novelty or public evaluation. And such distinctive “incomprehensibility,” while it may at first glance appear typological or immature, is fundamentally not self-indulgent.
Nevertheless, such an individual’s technique and values may be something that cannot be translated into the words of anyone else. Or, it may be something that “needs” to intentionally avoid being understood by others.
My fundamental concern is to consider a method of discussing an artist’s specificity not through emphasized individuality or constructionist contexts, but by presupposing such “incomprehensibility.”
Based on the above interests, I will observe the works of Ishii and Fukami.
At the same time, insofar as both artists continue active practice, I also wish to avoid drawing definitive lines about them. Therefore, the discussion will be somewhat tentative.
Since this is a simultaneous solo exhibition rather than a two-person show, I will write about each artist’s work individually without forcing connections between the two. As floors 1 and 2 feature Ishii and floor 3 features Fukami, let me begin by considering Ishii’s work.
Kaion Ishii Solo Exhibition “warp”
This time, Ishii is exhibiting portrait paintings. When I visited the studio, on a large canvas of about 100 号, several figure paintings in his usual style and a girl observing them were depicted. Around the artwork are small pieces that appear to be cut from the figure paintings depicted in the large work.
I see—the figure paintings within the image apparently line the actual exhibition space. Since Ishii has previously repeated motifs appearing in paintings through paintings-within-paintings and other works, I thought this was a natural development.
Ishii’s works are difficult to describe in their entirety because multiple elements intertwine in a scattered-reflection manner.
Nevertheless, if I were to extract one thing related to this exhibition, it might be good to think about signs and symbols.
For example, Peter Doig develops boats and grids across multiple works by switching how he paints them, their sizes, and the motifs he applies them to. Through this, the image of boats and grids becomes symbolized by Doig’s own hand. The boat becomes Doig’s symbol.
Similarly, in Ishii’s works too, images such as girls’ eyes, finger-pointing hands, ghosts, centaurs, and tulips repeatedly appear in multiple paintings. It is not strange to employ favored imagery frequently, but through the mediation of highly referential motifs such as paintings-within-paintings and mirrors, conscious symbolization is indeed taking place.
Also, symbols are deeply involved in the changes in Ishii’s recent creative approach. For example, in “Mirror 2” (2019), the tulips have a form like children’s scribbles. Just as most people would understand it to be the sun if one drew radiating lines around a circle, in this case the symbol means something close to a sign or emoji. However, in “Bunny Cactus’s Lack of Sunlight” (2021), presented at a solo exhibition in October 2021, plants (though not tulips) are depicted with more actual feeling than before. Regarding this change, an interview from June of that year comes to mind.
As things become symbolized and monotonous, things that absolutely should be done are also stripped away. It would be better if that happened later, but it hasn’t been that many years since I started painting. [Omitted] I think symbols have an aspect of becoming an escape, so I should be careful.
From MIMIC “Kaion Ishii Interview 2021” ([Omitted] is by the author)
Here it was a question of whether to paint the shadow falling on the frame, but for Ishii now, ignoring the expression that actual plants possess and painting based on atmosphere is also “slacking off.” It’s fine to do such simplification after becoming better at painting, but since he only recently started, he wants to be able to paint more different things.
Ishii’s point is very understandable, and it seems to have a good influence on his work. Moreover, to me this seems to demonstrate a close connection between the technical standard in Ishii’s work and the difference between sign and symbol. Let me draw one auxiliary line.
Alex Katz came to prominence in the 1950s and is frequently positioned as a Pop Art artist for painting illustration-like portraits. However, in an interview with Robert Storr, Katz reflects that he was interested in painting excellent paintings and was heading in a completely different direction from Pop Art. He then explains the difference from Pop Art from two angles.
First, Katz establishes the difference between sign and symbol. (Following the original text, English terms will be included from here on.)
For example, “a sign, if it’s a STOP sign, means ‘stop,’ and means nothing else.”
Sky is blue. A meadow is green. Pop Art, for Katz, was the use of such obviously clear images, in other words signs. Meanwhile, he says he was interested in something more complex.
That is symbol. Symbol does not converge into a single meaning but sways behind the portraits Katz paints. “Handling symbols, which are far more variable than signs”—this is one of Katz’s theses.
Next, Katz introduces technical standards. With the playful phrase “big technique” (if I were to translate it, something like “fucking huge technique”), it is unique to the artist, so I’ll quote it directly.
I was interested in the performance of painting. Pollock was quite good, but when I learned about Picasso’s “Girl Before a Mirror” (1932) and really understood how well he could paint… Actually, big technique doesn’t come until you’re about 35 or 40, no matter how good an artist you are.
Picasso’s early paintings were technical, and to me they were quite unstable. Even his great Cubist paintings don’t count as big technique. When he reached his 50s and painted “Girl Before a Mirror”—that’s big technique. To me it was absolutely wonderful, that was what I wanted to do.
Matisse has big technique. It took me 3 or 4 years to learn the proper way to view painting. At art school, a teacher said “look at Matisse.” There’s no way I could paint that well! Really, I was bowled over. That was big technique.
So that’s my mindset: big technique and small technique. Such a mind works in terms of creation and in terms of fashion and style. Pop painting has wonderful works, but my eye was directed elsewhere.
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(Translation by the author)
In a previous interview, Ishii said he wanted to “throw his paintings far away.” Expressing that paintings should last for many years as throwing them far away is very characteristic of Ishii’s sensibility.
One can sense something like a subjective nuance of projecting work into a different temporal register than the present. Now, to a place different from here and there, like dice, the work is cast.
Works we usually see in museums are thus thrown into countless ages and yet have remained in the present. Certainly, people’s eye changes, and paintings age. Still, painting, in principle, lives a longer time than people. Across time and place, we encounter distant objects from the past.
In the title attached to the solo exhibition, along with moving between dimensions of pictorial space, one can sense Ishii’s quiet longing and wish toward painting that has endured distortions of spacetime in this way.
Symbol, from its etymology, means “to throw together / share.”
Sign, in the sense that Katz gave to Pop Art, possesses a provisional universality and is directed at the contemporary (from the word “to share time”) in that it exists with the consumption of the era. Symbol perhaps strikes against the possibilities that sign possesses and throws it into another phase.
In the paintings Ishii speaks of being “thrown far,” there surely dwells such power as symbol and the technique that Katz calls big technique. And Ishii’s paintings may be directed toward that.
Finally, in Ishii’s works, there is always one invisible sign. It is gaze. As Doig self-symbolizes the boat, Ishii symbolizes the motif of closed or vacant eyes. And those eyes are identified by the ephemeral quality and warmth unique to Ishii’s painting.
The gaze symbolized by Ishii’s hand wanders through the painting via mirrors, paintings-within-paintings, windows, and sometimes through gestures, hand movements, and lines made with piping bags. The girl’s eyes (sign) are a symbol thrown back to viewers by the existence of such a gaze.
Fukami Eri Solo Exhibition “fictional reality.”
Contrary to the first impression of the picture surface, I know few people who express the experience of reality as frankly as Fukami does.
For example, when one is “startled so much you jump,” in reality you do not actually jump. But if one were to paint it, would not painting a figure that has jumped accord better with the sense of reality [reality] one has encountered?
Fukami attempts to narrativize the reality thus intuitively grasped with almost no embellishment.
The fact that there are multiple Fukamis in the painting, or that her own image is projected into her grandmother’s reminiscence, is because it accords with Fukami’s internal sense of reality [reality].
However, Fukami’s works cannot be resolved by realistic issues alone.
Many of the images seen in Fukami’s paintings evoke distant memories, dreams, and primordial experiences preserved in the unconscious.
From the appearance of naked figures, psychological images concerning human creation such as Adam and Eve, and intimate spaces such as family and you and me, are tied together. (“Reminiscence” (2022), “Life Spun” (2021), “Only Me” (2021))
Observing this carefully constructed virtual world, one is seized by a sensation as if unconscious images (the origin of self) and primordial images (the origin of the world) connect at one point. Fukami says that dying is returning. Seeing life and death, self and other, within one continuous cyclical process is involved in the worldview of Fukami’s paintings.
Were you and I originally one? Did we come from some one place?
Fukami’s works are a place where such world-recognition [reality] and the experience of reality [reality] meet as one.
Because multiple times, multiple points, and multiple worldlines coexist in a single painting as lived experiences, Fukami’s picture surface is chaotic.
To fix scenes produced from the brain to the picture surface in as lived a state as possible requires completing works at a speed approaching the transmission speed of synapses. “The Day the Moon Was Very Beautiful” (2022) was completed in about two hours.
Inevitably, the picture surface reveals highly saturated colors and raw brushwork with emphasized subjectivity. The symbolic expression of human motifs may also indicate that there is an appropriate resolution that the body can easily capture, rather than formalist interest.
Moreover, in these expressionistic characteristics, there are similarities with painters of the same generation such as Shinya Azuma and Miho Iida. However, Azuma seems to employ more ironic and self-deprecating representation, while Iida employs a self-referential attitude toward self-reference, and seems to meta-examine cultural frameworks before folding back to pictorial technique.
Fukami’s works do not have such strong adherence to cultural determinacy. To put it subtly, she jumps over institutional problems and deals with mythical ones.
Still, when something is this close to sketching, isn’t the difference from drawing nearly eliminated? When I asked Fukami, she said it’s actually almost no different. Rather, drawings are more finished, and in them her “memory and reality being connected is more apparent.”
Then why oil painting? Summarizing Fukami’s answer as follows.
Drawing with crayons she has used since childhood and is familiar with would allow her to produce consistent quality every time. However, with oil painting, the quality of the work changes with the physicality of the body. In the real world, one-time events happen every day. You can only respond to each situation as it comes. Oil painting is the best medium for this. Paint is fluid, and the color saturation and spread of oil change each time. She uses inorganic pigments for living things and organic pigments for dead things, and depending on the situation at the moment, what she uses changes, and the image changes accordingly.
(From notes of a prior interview)
In this case, the difficult-to-handle oil paint is likened to contact with the external world and others. By mediating such otherness, the self and the work are necessarily called upon to transform.
Otherness is presupposed in Fukami’s subjectivity [reality].
This point is important. From the characteristics so far, Fukami appears to be painting “her own” inner world. On the other hand, Fukami also calls that “self” from outside.
Naturally, since she shows work in the public space of an exhibition, Fukami is self-aware of a self in which the eyes of others are woven. The narrative [reality] Fukami creates exists in the gap of intoxication open to negotiation with others.
Nevertheless, such subjective-ist painting forms invite criticism.
Hal Foster questions the way of thinking about “the unconscious” that people prioritizing inner expression treat as privileged. And he considers that expressionists are naive or behaving with self-deprecation regarding how the self is constructed culturally from the stage of inspiration and motivation. According to Foster, the intuitive expression handled by such artists is merely one type already fully coded by existing art history.
This view is criticism that has been uniformly leveled at artists who emphasize expression (or existence).
In fact, Fukami’s works have a danger of appearing like something seen before somewhere.
For example, in the point of giving direct form to personal existence and emotion, painters of prior generations such as Masato Kobayashi, Hiroshi Sugito, OJUN, and Rei Ikemura do the same thing. While this is strictly an associative matter in terms of ideology, parts of it also apply to concrete expression. For example, the depiction of trees in Fukami’s “Gray Homeland” (2022) is reminiscent of OJUN’s exhibition “The Startled Me Watching Flying Pigeons,” and the pencil touch is reminiscent of Sugito’s “three roofs.”
Whether such similarities appear in the dimension of affection and influence or result in inferior worldview depends on the strength of Fukami’s own work. On the other hand, the immediacy of fixing images in their raw state necessarily risks leaving the painting roughly symbolic. As stated in the previous text by Ishii, symbolization also leads to monotonization. Here, deciding where to land technically is a difficult problem, is it not? This is a simple matter of the cat that appears in “When I Remembered” (2022) being hard to recognize as a cat at first glance, or the lively rustling of the flowers not quite coming across. Whether it is better because Fukami’s reality is sufficiently expressed or whether it would be better to paint in a way everyone understands is unclear. However, even Edvard Munch, Marc Chagall, or Miriam Kahn seem to paint with good balance.
That said, Fukami herself may have already set a direction. There is change in how the figures are depicted. What was at first consciously painted symbolically (SUKI (2022)) gradually becomes richer, with expressions appearing on faces and decorative objects being added.
My doubts notwithstanding, Fukami will easily overcome Foster’s criticism as well.
Now, in this text, I have read “reality” in various ways: as sense of reality and world-recognition.
When I asked Fukami what she would translate “reality” as herself, she answered “chaos.” She was hesitating between “truth,” so if I asked today I might get a completely different answer. But “chaos” makes perfect sense.
The reality Fukami has experienced mixes internal sensation, recognition of the world, and memory, and through contact with the external world such as paint and canvas, creates a narrative world.
Multiple lives [reality] are lived in one flat world.
Indeed, chaos [reality].
⚡ AI Translation
石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」
전시회 페이지
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/
서문
2019년부터 MIMIC이라는 리서치 프로젝트를 기획하고 있다. MIMIC에서는 주요 멤버인 熊野陽平과 함께 신변의 아티스트들을 리서치하고 아카이브함으로써 개인이 안고 있는 복잡성을 가능한 한 형태를 유지한 채 기술하는 방법을 모색하고 있다.
첫 번째에서 石井海音을 대상으로 했던 이유도 있어서, 이번에는 石井와 フカミエリ동시개최 개인전에 텍스트를 기고하게 되었다.
불필요한 전치사가 될 우려를 감수하면서도, 기본적인 관점을 제시하고 싶다. 그렇게 하는 것이 나중의 이야기가 더 전해지기 쉬울 것이다.
나는 작가의 개인적인 기술이 좋다. 작품을 통해 그 사람만의 척도와, 그 사람이기에 가질 수 있는 독특한 “알기 어려움”에 대해 생각하는 것에 매우 관심이 있다.
예를 들어 회화 작품에서 선명하고 잘 정의된 선을 그을 수 있는 것은 높은 기술력의 증거이다. 하지만 모두가 그러한 선을 추구하는 것은 아니다. 혹시 허약해 보이는 선이 그 사람에게 절대적으로 필요한 것일 수도 있다.
단순히 허약한 것이 아니다. “이” 허약한 선이 있고, 작가는 그 고유성을 향하고 있다. 그것은 새로움이나 공적 평가라는 차원과는 다른 수준에서 성립하는 기술[퀄리티]의 문제이다. 그리고 이러한 고유한 “알기 어려움”은 얼핏 봐서는 전형적이거나 미숙해 보일 수 있지만, 먼저 독선적인 것은 아니다.
그렇다 하더라도, 그러한 개인의 기법과 가치관은 그 사람 외의 다른 말로 번역할 수 없는 것일 수도 있다. 또는 다른 사람이 이해받으려는 것을 의도적으로 피할 “필요가 있는” 것일 수도 있다.
아티스트의 고유성을 강조된 개성이나 구성주의적 맥락이 아닌, 이러한 “알기 어려움”을 전제로 말하는 방법을 생각하고 싶다는 것이 나의 근본적인 문제 의식이다.
위의 관심을 바탕으로 石井와 フカミ의 작품을 본다.
동시에 현재진행형으로 활동을 계속하고 있는 한, 작가에 대해 확정적인 선을 긋는 것도 역시 피하고 싶다. 따라서 이야기는 어느 정도 유보적이 될 것이다.
2인전이 아니라 동시개최 개인전이므로, 두 사람의 작품을 억지로 연결짓지 않고 개별적으로 쓴다. 1, 2층이 石井 섹션, 3층이 フカミ섹션이라고 하니, 먼저 石井의 작품에 대해 생각해보자.
石井海音개인전「warp」
이번에 石井은 초상화 그림을 전시한다고 한다. 아틀리에를 보러 갔더니, 100호 정도의 큰 화면에 항상의 화풍으로 몇 장의 인물화와 그것을 보는 소녀가 그려져 있었다. 작품 주위에는 대작에 그려진 인물화를 오려낸 것 같은 소품들이 놓여있다.
아, 화중의 인물화가 실제 전시 공간에 줄지어 선다는 뜻이군. 石井은 지금까지도 그림에 등장하는 모티프를 화중화나 다른 작품에서 반복해왔으니, 자연스러운 흐름이라고 나는 생각했다.
石井의 작품은 복수의 요소가 불규칙하게 뒤얽혀 있어서 전체상을 말하기가 어렵다.
그래도 이번 전시와 관련해서 하나를 꺼낸다면, 기호와 상징을 둘러싸고 생각해보는 것이 좋을지도 모른다.
예를 들어 Peter Doig는 보트나 그리드를 그리는 방식, 크기, 적용하는 모티프 등을 바꿔가며 여러 작품에 걸쳐 전개한다. 그렇게 함으로써 보트와 그리드의 이미지는 Doig 자신의 손으로 기호화된다. 보트는 Doig의 상징이 된다.
마찬가지로 石井의 작품에서도 소녀의 눈, 손의 지시, 유령, 켄타우로스, 튤립 같은 이미지가 여러 그림에서 반복해서 나타난다. 좋아하는 도상을 많이 쓰는 것은 이상한 일은 아니지만, 화중화나 거울 같은 참조성이 높은 모티프를 매개로 해서, 역시 의식적인 기호화가 이루어지고 있다.
또한 근작에서 石井의 제작 태도의 변화에도 기호가 깊이 관여하고 있다. 예를 들어 《鏡2》(2019)에서 튤립은 어린이의 낙서 같은 조형을 하고 있다. 동그라미 주위에 방사상의 선을 그으면 많은 사람이 태양이라고 알아채는 것처럼, 이 경우 기호란 표지판이나 이모티콘에 가까운 의미합이 있다. 하지만 2021년 10월 개인전에서 발표된 《バニー・カクタスの日光不足》(2021)에서는 (튤립은 아니지만) 예전보다도 더 실감을 가지고 식물이 그려지고 있다. 이 변화에 대해서는 같은 해 6월의 인터뷰가 생각난다.
기호화해서 단조화되어 가면서 그러한 절대로 해야 할 일도 깎여나간다. 그것이 좀 더 나중이었으면 좋겠지만, 지금은 아직 그림을 그린 지 몇 년도 안 되었다. 〔중략〕기호라는 것도 도망치려고 하는 면이 있으니까 조심했으면 좋겠다고 생각해요.
MIMIC「石井海音인터뷰2021」에서 (〔중략〕은 저자)
여기서는 액자에 떨어지는 그림자를 그을지 말지의 이야기였지만, 실제 식물이 가지고 있는 표정을 무시하고 분위기로 그리는 것도 지금의 石井에게는 “태만”이 되는 것일 텐데. 그림이 더 잘 그려지고 나서 그러한 단순화를 하는 것은 좋지만, 지금은 아직 그림을 시작한 지 얼마 안 되었으니까 더 여러 가지를 그릴 수 있게 되고 싶다고.
石井의 말은 매우 잘 이해되고, 그림에도 좋은 영향을 미치고 있는 것처럼 보인다. 게다가 나에게는 이것이 石井 작품에서의 기술적 척도와 기호/상징의 차이의 밀접한 연결을 보여주고 있는 것처럼 생각된다. 하나의 보조선을 그어보자.
Alex Katz는 1950년대에 두각을 나타내 일러스트 풍의 초상화를 그리는 것으로 종종 팝 아트의 작가로 위치 지어진다. 하지만 Robert Storr와의 인터뷰에서 Katz는 자신은 뛰어난 그림을 그리는 것에 흥미가 있고, 팝과는 전혀 다른 방향을 향하고 있었다고 말한다. 그리고 팝 아트와의 차이를 두 가지 방향에서 설명한다.
첫째로, Katz는 기호 -sign과 상징 -symbol의 차이를 제시한다. (원문에 따라 여기부터는 영문 표기를 함께한다.)
예를 들어 “기호-sign은 정지 표지판이면 「멈춰라」라는 것이고”, 그 외에 다른 의미는 없다.
하늘이면 파란색. 초원이면 녹색. 그러한 누구의 눈에도 명백한 이미지, 즉 기호-sign을 사용하는 것이 Katz에게 있어서의 팝 아트였다. 한편 자신은 좀 더 복잡한 것에 관심이 있었다고 한다.
그것이 상징 -symbol이다. 상징 -symbol은 하나의 의미로 수렴되지 않고 Katz가 그리는 초상의 배경에서 흔들린다. 「기호 -sign보다도 훨씬 더 가변적인 상징 -symbol을 다룬다」 것, 이것이 Katz에서의 첫 번째 테제이다.
다음으로 Katz는 기술적 기준을 제시한다. big techinique라는 장난 같은 말 (억지로 번역하면 「쩌는 테크닉」 정도라고 생각한다)로, 작가 고유의 것이니까 직접 인용해버리자.
그림의 행위성 -performance에는 관심이 있었어. Pollock은 꽤 좋았어, 하지만 Picasso의 《Girl Before a Mirror》(1932)를 알고, 그가 얼마나 잘 그릴 수 있는지 정말 알았을 때……실제로 35세나 40세까지는 big technique 같은 게 몸에 베이지 않아, 아무리 좋은 작가라고 해도 말이야.
Picasso의 초기 그림은 기교적이었고, 나에게는 꽤 불안정한 것이다. 그의 위대한 입체파 그림들조차도 big technique이라고는 할 수 없다. 그가 50대가 되어 《Girl Before a Mirror 》를 그릴 때――그건 big techinique야. 나에게는 완전히 멋있었어, 그게 나의 하고 싶은 일이었어.
Matisse는 big techiniqueを가지고 있다. 나는 그림의 올바른 감상 방법을 배우는 데 3, 4년이 걸렸다. 미술학교에서 선생님이 「Matisse를 봐라」라고 했어. 그렇게 잘 그릴 리가 없지! 정말로 기가 멀어졌어. 그건 big technique였다.
그래서 그게 나의 마인드셋이야, big technique과 small technique. 이런 마인드는 창조라는 점에서도 패션이나 스타일이라는 점에서도 작동한다. 팝 페인팅에 멋있는 것도 있지만, 나의 눈은 다른 것을 향하고 있었어.
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(번역은 저자에 의함)
이전 인터뷰에서 石井은 자신의 그림을 「멀리 던지고 싶다」고 말했다. 그림이 몇 년이나 남아있기를 바라는 것을, 멀리 던진다고 표현하는 것은 石井다운 감각이라고 생각한다.
어떤 현재와는 다른 시제로 작품을 투영하는 것 같은 주체적인 뉘앙스가 느껴진다. 지금, 여기와는 다른 장소로 주사위처럼 작품은 던져진다.
미술관 등에서 평소에 보는 작품은 그렇게 여러 시대로 던져져 여전히 현재에 남아있는 것이다. 분명히 사람의 보는 눈은 변하고 그림도 늙는다. 그래도 그림은 원리적으로 사람보다 더 긴 시간을 살고 있다. 시간과 장소를 넘어 사람들은 먼 과거의 대상과 만나고 있다.
개인전에 붙여진 제목에는 그림 공간의 차원을 오가는 것과 함께 그런 식으로 시공의 비틀림을 견디어낸 그림에 대한 石井의 조용한 동경과 염원이 느껴진다.
상징 -symbol은 「함께/던지는 것」을 어원으로 한다.
Katz가 팝 아트에 준 것 같은 의미에서의 기호 -sign은 가정의 보편성을 가지고 시대의 소비와 함께한다는 점에서 동시대 -contemporary(「시를/함께하는」)에 향해진 것이다. 상징 -symbol은 그러한 기호 -sign이 가진 가능성을 두드려 다른 국면으로 던지는 것일 수도 있다.
石井이 「멀리 던져진다」고 한 그림에는 아마도 그러한 상징 -symbol으로서의 힘과 Katz가 big technique이라고 부르는 기술이 깃들어 있을 것이다. 그리고 石井의 그림은 그곳을 향하고 있을지도 모른다.
마지막으로 石井의 작품에서 항상 눈에 보이지 않는 기호가 하나 존재한다. 그것은 시선이다. Doig가 보트를 자기 기호화하듯이 石井은 감은 눈이나 텅 빈 눈의 모티프를 기호화한다. 그리고 그 눈은 石井의 그림 고유의 덧없음과 따뜻함으로 아이덴티파이되기도 한다.
石井의 손으로 기호화된 시선은 거울이나 화중화, 창, 또한 때로는 몸짓이나 손짓, 짤주머니의 선을 통해 그림 안을 헤맨다. 소녀의 눈(기호)은 그러한 시선의 존재를 감상자에게 던져 돌려주는 상징(심볼)인 것이다.
フカミエリ개인전「fictional reality.」
화면의 제1인상과는 배치되게 フカミほど현实의 경험을 솔직하게 표현하는 사람을 나는 그리 많이 알지 못한다.
예를 들어 「깜짝 놀라 튀어올랐다」고 할 때 현실에는 튀어올라 있지 않다. 하지만 그것을 그림에 그린다면 튀어올린 인물을 그린 쪽이 자신이 직면한 현실감[리얼리티]에 맞지 않을까.
フカミ은 그렇게 직관한 현실을 거의 각색하지 않고 이야기화하려고 시도한다.
그림 속에 フカミ이 여러 명 있거나, 할머니의 추억 이야기에 자신의 모습이 투영되는 것은 그것이 フカミ의 내면적 실감[リアリティ]에 부합하기 때문이다.
하지만 현실적인 문제만으로는 フカミ의 작품은 끝나지 않는다.
フカミ의 그림에 보이는 이미지의 많은 것들은 먼 기억의 풍경이나 꿈, 무의식 아래에 보온된 원체험을 상기시킨다.
벗은 인물의 양태로부터는 Adam과 Eve를 시작으로 인류 창생에 관한 심적 이미지와 가족, 너와 나라는 친밀한 공간이 연결된다. (《追憶》(2022)나 《つむぐ生命》(2021), 《わたしひとりだけ》(2021))
이렇게 다듬어진 가상 세계를 보고 있으면 마치 무의식의 이미지(자신의 기원)와 원시적 이미지(세계의 기원)가 한곳에서 연결되어 있는 것 같은 감각에 습격당한다. フカミ은 죽음은 돌아가는 것이라고 말한다. 생과 사, 자기와 타자, 그것들을 하나로 이어진 순환적 프로세스 내에서 보는 것이 フカミ의 그림의 세계관에 관여하고 있다.
나와 너는 원래 하나였던가. 어디 한 곳에서 왔던가.
フカミ의 작품은 그러한 세계 인식[리얼리티]과 현실의 경험[리얼리티]이 하나로 만나는 장소인 것이다.
복수의 시간, 복수의 지점, 복수의 세계선이 살아진 것으로서 한 장의 그림에 함께하기 때문에 フカミ의 화면은 혼란스럽다.
뇌에서 산출되는 정경을 가능한 한 살아있는 상태로 화면에 고정시키려면 시냅스의 전달 속도에 한없이 가까운 속도로 작품을 마무리할 필요가 있다. 《月がとても綺麗な日》(2022)는 약 2시간 정도에 완성되었다.
필연적으로 화면에는 고발색의 색채와 주관성이 강조된 생생한 필촉이 드러난다. 인물 모티프의 표현이 기호적인 것도 포르말리즘적 관심이라기보다는 신체가 포착하기 쉬운 적절한 해상도가 있는 것일지도 모른다.
또한 이러한 표현주의적 특징에서는 東慎也나 飯田美穂 같은 동세대의 화가들과도 가까운 부분이 있다. 다만 東는 좀 더 아이러니컬하고 악의적인 표상을 이용하고 飯田는 자기 언급성에 대한 자기 언급적 태도를 각각 사용해서 문화적 틀을 메타적으로 본 다음 그림의 기술로 접어내가는 것처럼 보인다.
フカミ의 작품은 그러한 문화적 규정성에 대한 こだわり가 그렇게까지 강하지 않다. 미묘한 말하기이지만 제도적인 문제를 점프해 신화적인 문제를 다루고 있다.
그런데도 이렇게 소묘에 가까우면 드로잉과의 차이가 거의 없어지는 건 아닐까. フカミ에게 묻자 실제로 거의 다르지 않다고 한다. 오히려 드로잉 쪽이 더 완성되어 있고, 자신의 「기억과 리얼리티가 연결되어 있는 것이 알기 쉽다」고 한다.
그렇다면 왜 유화인가. フカミ의 답변을 요약하면 다음과 같다.
어린 시절부터 사용해온 손에 익은 크레용으로 하는 드로잉이면 매번 안정적인 퀄리티로 낼 수 있다. 하지만 유화는 신체성에 따라 그림의 출来栄가 바뀐다. 현실 세계는 한 번뿐인 일이 매일 일어난다. 그때그때 대응할 수밖에 없다. 유화에서는 그것과 같은 일을 가장 할 수 있다. 그림의 具는 유동적이고 발색이나 오일의 스며듦도 그때마다 바뀐다. 생물에는 무기 안료를, 죽어있는 것에는 유기 안료를 사용해보기도 하고 그때그때의 상황에 따라 쓰는 것도 변하고 그에 맞춰 이미지도 바뀌어간다.
(사전 인터뷰의 메모에서)
이 경우 다루기 어려운 유화는 외계・타자와의 접촉에 견립되고 있다. 그러한 타자성을 매개함으로써 자기・작품은 어쩔 수 없이 변용을 요청받는다.
フカミ의 주관성[리얼리티]에는 이미 타자성이 전제되어 있다고 할 수 있다.
이 점은 중요하다. 지금까지의 특징에서는 フカミ은 「자신의」내면 세계를 그리고 있는 것처럼 각인된다. 한편 フカミ은 그 「자신」을 외부에서도 불러내고 있다.
전시라는 공공 공간에서 작품을 보이니까 당연하지만 フカミ은 타자의 눈이 짜여 넣어진 자신이라는 것에 자각적이다. フカミ이 만드는 물어리[リアリティ]는 타자와의 교섭에 열려있는 도취의 틈새에 있는 것이다.
그래도 이러한 주관주의적인 회화 형식에는 비판도 예상된다.
Hal Foster는 내면적 표현을 중시하는 사람들이 특권적으로 다루는 「무의식」의 생각을 의문시한다. 그리고 자기가 그 영감과 동기의 단계부터 어떻게 문화적으로 구축되어 있는지에 대해 표현주의자가 순진하거나 노골적으로 행동하고 있다고 생각한다. Foster에 따르면 이러한 작가들이 다루는 직관적 표현은 이미 존재하는 미술사에 의해 완전히 코드화된 유형 중 하나일 뿐이다.
이러한 견해는 표현(혹은 실존)을 중요하게 생각하는 예술가들이 한결같이 받아온 비판이다.
실제로 フカミ의 작품은 어디선가 본 것 같은 것으로 보일 위험성도 있다.
예를 들어 개인적인 실존이나 정서에 직접적인 형식을 부여한다는 점에서는 小林正人이나 杉戸洋, OJUN, イケムラレイコ 같은 선행 세대의 화가들도 같은 일을 하고 있다. 이것은 어디까지나 이념적인 부분에서의 연상이지만 구체적인 표현에서도 일부 말할 수 있다. 예를 들어 フカミ《灰色の故郷。》(2022)에서의 나무의 그려짐은 OJUN전 「날아오르는 비둘기에 놀라는 나」의 연필 터치는 杉戸의 《three roofs》 등을 연상시킨다.
그러한 유사성이 예를 들어 사랑이나 영향의 차원에서 비칠지 아니면 세계관으로서 떨어진 것이 될지는 フカミ 자신의 작품의 강도에 의한다. 한편 이미지를 생のまま 화면에 고정시키는 즉시성은 어쩔 수 없이 그림을 기호적으로 거칠게 남기고 있을 가능성도 있다. 앞의 텍스트에서 石井이 말하고 있듯이 기호화는 단조화로도 통한다. 거기서 기술적 착지점을 어디에 가져갈지는 어려운 문제가 아닐까. 이것은 《思い出したら》(2022)에 나오는 고양이가 한눈에 고양이라고 분간되기 어렵거나 꽃의 생기 있는
⚡ AI Translation
石井海音个展”warp”/フカミエリ个展”fictional reality.”
展览会页面
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/
前言
从2019年开始,我在策划一个名为MIMIC的研究项目。在MIMIC中,与主要成员熊野阳平一起,通过对身边艺术家的研究和档案整理,探索在尽可能保持形态的同时记述个人复杂性的方法。
由于第一回采用了石井海音作为对象,这一次我便为石井和フカミエリ同时举办的个展撰写了文本。
尽管存在增添多余前言的风险,但我还是想提示基本的视角。这样的话,后面的话题会更容易理解。
我喜欢艺术家个人的技法。通过作品来思考这个人独有的尺度,以及这个人才能具有的固有的”难以理解”之处,我对此非常感兴趣。
例如在绘画作品中,能够画出锐利有力的线条是高技术能力的证明。但是,并非所有人都追求这样的线条。也许对某个人来说,细弱无力的线条是绝对必要的。
不只是简单的无力。存在着”这样”的无力线条,艺术家朝向其固有性。这是一个与新颖性或公众评价等维度截然不同的层面上呈现的技术[品质]问题。而这样的固有的”难以理解”,尽管乍看可能是类型化的或不成熟的,但首先绝非自以为是的。
尽管如此,这样的个人技法和价值观,也许无法被翻译成该人以外的语言。或者,也许存在着必须”故意避免”被他人理解的”必要”。
我的根本问题意识是,想要思考在强调的个性或建构主义语境之外,而是以这样的”难以理解”为前提来叙述艺术家固有性的方法。
基于以上的关注,让我们来观看石井和フカミ的作品。
同时,既然当前还在持续活动中,我也想避免对艺术家做出确定性的论述。因此,讨论可能会有些保留。
由于是同时举办的个展而非二人展,我不会勉强关联两位艺术家的作品,而是分别叙述。根据1、2楼是石井,3楼是フカミ的分布,我首先来思考石井的作品。
石井海音个展”warp”
这次,石井据说要展示肖像画。当我去看了工作室后,在约100号大小的画面上,用一贯的画风画了几幅人物画和观看它们的少女。作品周围放置着一些小品,像是从大作中描绘的人物画切割下来的。
我明白了,画中的人物画会在现实的展示空间中排列。由于石井过去也在画中画或其他作品中反复使用出现在绘画中的主题,我认为这是自然的延续。
石井的作品由于多个要素杂乱无章地纠缠在一起,很难讲述整体面貌。
尽管如此,如果与本展相关而要取出一个的话,围绕符号和象征来思考可能会不错。
例如彼得·多伊格(Peter Doig)通过改变绘画方式、尺寸、所应用的主题等,在多个作品中展开船只或网格。通过这样做,船只或网格的形象被多伊格自己的手符号化了。船成了多伊格的象征。
同样,在石井的作品中,少女的眼睛、手的指示、幽灵、半人马、郁金香等形象在多幅绘画中反复出现。频繁使用喜爱的图像不是什么奇怪的事,但通过画中画或镜子等参照性高的主题作为媒介,有意识的符号化确实在进行。
此外,符号与石井近作制作态度的变化密切相关。例如,在《镜2》(2019)中,郁金香呈现出儿童涂鸦般的造型。就像在圆周围画放射线就会让大多数人理解为太阳一样,在这种情况下的符号有接近标识或表情符号的含义。但是在2021年10月举办的个展中发表的《Bunny·Cactus的日光不足》(2021)中,(虽然不是郁金香)与之前相比,植物被描绘得更具真实感。关于这一变化,令人想起同年6月的采访。
在符号化、单调化的过程中,绝对应该做的事情也被削除掉了。如果那是在更后面就好了,但现在还没有开始画画多少年。[中略]符号有逃避的方面,所以我觉得应该注意。
MIMIC”石井海音采访2021″(中括号部分为作者所做)
这里谈论的是是否描绘落在画框上的影子,但对于现在的石井来说,忽视实际植物所具有的表情而用氛围描绘,也会成为”偷懒”吧。等画得更好的时候再进行这样的简化是可以的,但现在还刚开始学画,想画出更多各种各样的东西。
石井的话我非常理解,似乎对绘画也有很好的影响。此外,在我看来这展示了石井作品中技术尺度与符号/象征差异的密切联系。让我画一条辅助线。
亚历克斯·卡茨(Alex Katz)在1950年代崭露头角,因描绘插图风格的肖像而经常被定位为波普艺术的艺术家。但在与罗伯特·斯托尔(Robert Storr)的采访中,卡茨回顾说自己对描绘优秀的绘画感兴趣,与波普走的是完全不同的方向。于是,他从两个方向解释了与波普艺术的区别。
首先,卡茨置换了符号-sign与象征-symbol的差异。(遵循原文,以下并行英文表记。)
例如”符号-sign,如果是STOP标识就是’停止’的意思”,别的什么都不表示。
天空是蓝色。草地是绿色。使用那些任何人眼中都明确的形象,即符号-sign,对卡茨来说就是波普艺术。另一方面,他说自己对更复杂的东西感兴趣。
那就是象征-symbol。象征-symbol不收敛于一个意义,而是在卡茨所绘肖像的后方摇晃。”处理比符号-sign更具可变性的象征-symbol”,这是卡茨的第一个论题。
接下来卡茨引入了技术标准。用big technique这样俏皮的说法(如果一定要翻译的话,我觉得就像”huge technique”这样),是艺术家独有的东西,所以我就直接引用了。
我对绘画的行为性-performance有过兴趣。波洛克相当不错,但当我了解到毕加索的《镜前的女孩》(1932)时,当我真正理解他有多会画画时……实际上,直到35岁或40岁左右,即使再好的艺术家也学不到big technique。
毕加索早期的画很有技巧,对我来说是相当不稳定的。即使是他伟大的立体主义绘画,也不能称为big technique。当他到了50多岁时画《镜前的女孩》——那就是big technique。对我来说,那完全太棒了,那就是我想做的。
马蒂斯拥有big technique。我花了3、4年时间学习绘画的适当欣赏方法。在美术学校,老师说”看看马蒂斯”。怎么可能画得那么好啊!真的,让我头晕目眩。那就是big technique。
所以,那就是我的心态,big technique和small technique。这样的心态在创造这一点和时尚风格这一点上都起作用。波普绘画中也有很棒的东西,但我的目光投向了别的东西。
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(翻译为笔者所做)
在之前进行的采访中,石井说自己的绘画想要”投向远方”。绘画想在多年后留存,用投向远方来表达,我觉得是石井特有的感觉。
能感受到某种主体的细微差别,仿佛是在将作品投入现在之外的时间。现在,作品像骰子一样被投入到与这里不同的地方。
在美术馆等平时看到的作品,正是这样被投入到众多时代之中,仍然留存至今的。确实,人的审视方式会改变,绘画也会老化。尽管如此,绘画原理上活得比人类更长的时间。超越时间和空间,人们与遥远过去的对象相遇。
从给个展起的标题中,既可以感受到在绘画空间维度之间往来的含义,也能感受到石井对经历了时空扭曲的绘画的秘密憧憬和愿望。
象征-symbol的词源是”共同/投掷”。
卡茨赋予波普艺术的符号-sign具有暂时的普遍性,与时代的消费共存,这一点上是指向同时代-contemporary(共享时间)的。象征-symbol也许就是敲响那样符号-sign所具有的可能性,将其投向别的位相。
石井的”被投向远方”的绘画中,也许正宿着这样的象征-symbol的力量,以及卡茨所称的big technique。而石井的绘画也许正朝向那里。
最后,在石井的作品中,始终存在一个看不见的符号。那就是凝视。就像多伊格自我符号化船只一样,石井将闭合的眼睛或空洞的眼睛的主题符号化。而那眼睛也因石井绘画特有的短暂性和温暖被认同。
被石井之手符号化的凝视,通过镜子或画中画、窗户,有时通过姿态或手势、挤压袋的线条,在绘画中漂游。少女的眼睛(符号),正是向欣赏者投回这样视线存在的象征(Symbol)。
フカミエリ个展”fictional reality.”
与画面的第一印象相反,我没有见过几个人像フカミ那样坦率地表现现实经验。
例如,”惊得跳了起来”的时候,现实中其实没有跳起来。但如果要用绘画来表现的话,画一个跳起来的人物,也许更符合自己面对的现实感[Reality]吧。
フカミ几乎不加修饰地将这样直觉到的现实,尝试叙事化。
绘画中出现多个フカミ,或者在奶奶的回忆故事中投影自己的身姿,那是因为这符合フカミ的内心实感[Reality]。
但是,仅用现实的问题无法解决フカミ的作品。
在フカミ的绘画中看到的许多形象,都令人想起遥远的记忆风景、梦境、无意识中保存的原始体验。
从裸体人物的样貌中,可以关联起以亚当和夏娃为首的人类起源相关的心理形象,以及家族、你和我这样的亲密空间。(《追忆》(2022)、《纺织生命》(2021)、《只有我一个》(2021))
当观看这样精心打造的虚拟世界时,似乎无意识的形象(自己的起源)与原始的形象(世界的起源)在某处联系在一起。フカミ说死亡就是回归。在循环性的过程中看待生与死、自我与他者,这参与了フカミ绘画的世界观。
我和你原本是一体的吗?是从某个地方来的吗?
フカミ的作品就是这样的世界认识[Reality]与现实经验[Reality]相遇的地方。
由于多个时间、多个地点、多个世界线作为生活过的东西共存于一张绘画中,フカミ的画面才显得混沌。
为了将从脑中产生的情景以尽可能生活的状态固定在画面上,需要以接近突触传递速度的速度完成作品。《月亮非常漂亮的日子》(2022)是在大约2小时内完成的。
必然地,画面上露出高饱和度的色彩和强调主观性的生动笔触。人物主题的表现之所以是符号化的,也许不是形式主义的关注,而是身体更容易捕捉的适度分辨率。
而且,在这些表现主义的特征中,与表现派画家同世代的东慎也和饭田美穗也有相近的地方。但是,东采用的是更具讽刺性和自贬性的表现,饭田采用的是对自我指涉性的自我指涉态度,从而元视角地看待文化框架,然后将其折返到绘画技术的样子。
フカミ的作品对这样的文化规定性的执着没有那么强。用微妙的说法,是跳过了制度问题,处理神话问题。
虽然如此,这样接近素描的程度,素描与绘画的差异是不是几乎没有了?当我问フカミ时,他说实际上几乎没有区别。反倒是,素描更完整,自己的”记忆与Reality的联系更清楚”。
那么为什么是油画呢?总结フカミ的回答如下。
从小使用的蜡笔进行素描的话,每次都能出现稳定的质量。但是油画,随着身体性,绘画的完成度会改变。现实世界每天都发生一次性的事情。只能在那一刻来应对。油画就能做到这一点。颜料是流动的,发色和油的伸展方式每次都变。对有生命的东西用无机颜料,对死的东西用有机颜料试试,根据当时的情况,所用的东西也会改变,相应地,形象也会改变。
(访前采访笔记)
在这种情况下,难以驾驭的油画颜料被比作与外界、他者的接触。通过这样的他者性作为媒介,自我、作品必然被要求变容。
可以说,フカミ的主观性[Reality]中,他者性是先行被前提的。
这一点很重要。在之前的特征中,フカミ似乎在描绘”自己的”内心世界。另一方面,フカミ也从外部召唤着那个”自己”。
既然要在展示这一公共空间展出作品,理所当然,フカミ对织入他者目光的自己有所自觉。フカミ创造的故事[Reality]存在于与他者协商敞开的陶醉的间隙中。
尽管如此,对这样的主观主义绘画形式,也能预料到批评。
哈尔·福斯特(Hal Foster)对重视内心表现的人士特权对待的”无意识”的想法提出质疑。他认为,从启发灵感或动机阶段起,自我在多大程度上受到文化建构,表现主义者要么是天真的,要么是故作姿态的。根据福斯特的看法,这样的艺术家处理的直觉表现,不过是已被既有美术史完全编码的类型之一。
这样的观点是表现(或实存)派艺术家一贯背负的批评。
实际上,フカミ的作品也存在某种似曾相识的危险性。
例如在赋予个人的实存或情绪以直接形式这一点上,小林正人、杉户洋、OJUN、池村玲子等前一代画家也在做同样的事。这只是概念层面的联想,但在具体的表现中也有一部分是这样。例如フカミ《灰色的故乡。》(2022)中树的描法,让人想起OJUN展”飞起的鸽子,惊讶的我”,铅笔的笔触让人想起杉户的《three roofs》等。
这样的相似性,例如是映射为爱或影响的维度,还是变成了世界观上低劣的东西,取决于フカミ自身作品的强度。另一方面,将形象生硬地固定的即时性,也有可能不得不将绘画符号化地粗留。如前面的文本中石井所述,符号化也通向单调化。那么,技术着陆点应该放在哪里,也许是个难题。这就像《想起来的时候》(2022)中出现的猫,乍一看很难看出是猫,花朵生动的微风感没能充分传达的简单问题。不知道フカミ的Reality是否表现充分就很好,还是不如万人能看懂地描绘更好。但是,埃德瓦尔德·蒙克、马克·夏加尔、米里亚姆·卡恩,似乎都描得很得体。
话虽如此,フカミ自己也许已经确定了方向。人物的描法产生了变化。一开始有意识地想符号化描绘的东西(《SUKI》(2022)),逐渐给脸部加上表情,加上装饰品,变得丰富了起来。
不只我的疑问,福斯特的批评,フカミ应该也会轻易地超越。
现在,在本稿中,我将Reality读作现实感和世界认识,各种各样。
当我问フカミ,如果自己翻译Reality的话会是什么,他回答说是”混沌”。”真实”也有纠结,所以今天问的话可能会得到完全不同的答案。但是,”混沌”非常容易理解。
フカミ经历的现实,被内心的实感、对世界的认识、记忆所混合,通过与颜料和画布等外界的接触,创造出一个故事世界。
在一个平面世界中,多个生命[Reality]被生活。
确实,混沌[Reality]。
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