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カトウ / Kato

カトウ / Kato

Profile

カトウ / Kato

2017年 東京藝術大学絵画科油画専攻入学
2021年 東京藝術大学絵画科油画専攻卒業
2021年 東京藝術大学大学院 修士 美術研究科 油画 入学

主な展示歴

汐留ストリートフェスティバルのピラーアートコンペティションでの制作展示
アートアワードトーキョー丸の内2021

受賞歴

準猫大賞 (藝大アートプラザ 猫展)
台東区長賞 サロンドプランタン賞 (卒業制作)
O氏賞奨学金 (大学院)

Overviews

主に抽象的な作品を描くことと描かないことを考えながら描いている。また、絵と物理的動きの関係や「意味すること」「選択すること」などにも興味し、考え制作を行なっている。

https://www.instagram.com/katou599/

 

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Note

岡本秀(Shu Okamoto)によるテキスト

 

石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」

展覧会ページ
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/

 

前文

2019年から、MIMICというリサーチプロジェクトを企画している。MIMICでは、主メンバーの熊野陽平と共に、身近なアーティストのリサーチとアーカイブを通じて、個人の抱える複雑さを、なるべく形を保ったまま記述していく方法を探っている。
第一回で、石井海音を対象にした由もあって、今回は石井とフカミエリ同時開催個展にテキストを寄せることになった。
余計な前置きになる恐れを承知で、基本的な視座を提示したい。その方が、後の話が伝わりやすいだろう。

ぼくは作家の、個人的な技術が好きだ。作品を通じて、その人ならではの尺度や、その人だからこそ持ちうる、固有の「わかりづらさ」について考えることに、とても関心がある。

たとえば絵画作品において、シャープでキレの良い線を引けることは、高い技術力の証である。しかし、誰もがそうした線を目指すわけではない。もしかすると、ひょろひょろの弱々しい線が、その人にとって絶対に必要なものかもしれない。
単に弱々しいのではない。“この”弱々しい線があり、作家はその固有性に向かっている。それは、新しさや公的評価といった次元とは別のレベルで立ち上がる技術[クオリティ]の問題である。そして、こうした固有の「わかりづらさ」は、一見して類型的だったり、未熟だったりすることはあっても、まず独りよがりなものではない。

とはいえ、そうした個人の技法、価値観は、その人以外の言葉に翻訳できないものかもしれない。あるいは、他人に理解されようとするのを意図的に避ける“必要がある”ものかもしれない。
アーティストの固有性を、強調された個性や構築主義的な文脈ではなく、このような「わかりづらさ」を前提に語る方法を考えたいというのが、ぼくの根本的な問題意識である。

以上の関心を踏まえて、石井とフカミの作品を観ていく。
同時に、現在進行形で活動を続けている以上、作家について確定的なラインを引くこともやはり避けたい。したがって、話はやや留保的になるだろう。

二人展ではなく、同時開催個展なので、二人の作品を無理に関連づけることはせず、個別に書く。1、2階が石井、3階がフカミのセクションという事なので、まずは石井の作品について考えることにしよう。

石井海音個展「warp」

今回、石井はポートレートの絵を展示するという。アトリエを見に行ったら、100号ほどの大きな画面に、いつもの画風で何枚かの人物画と、それを観る少女が描きこまれていた。作品の周りには、大作に描かれた人物画を切り取ってきたような小品が置いてある。
なるほど、画中の人物画が、現実の展示空間に並ぶらしい。これまでも石井は、絵に登場するモチーフを、画中画や他の作品で反復していたから、自然な流れだとぼくは思った。
石井の作品は、複数の要素が乱反射的に絡み合っているため、全体像を語るのが難しい。
それでも、本展に関連して一つ取り出すとしたら、記号と象徴をめぐって考えてみるのが良いかもしれない。

たとえばピーター・ドイグは、舟やグリッドを、描き方、サイズ、あてはめるモチーフなどを入れ替えて、複数の作品にわたって展開する。そうすることで、舟やグリッドのイメージは、ドイグ自身の手で記号化される。舟はドイグの象徴になる。
同様に石井の作品でも、少女の目や、手の指し示し、おばけ、ケンタウロス、チューリップといったイメージが、複数の絵で繰り返し現れる。好きな図像を多用するのは変な話ではないが、画中画や鏡などの参照性の高いモチーフを媒介して、やはり意識的な記号化が行われている。
また、近作における石井の制作態度の変化にも、記号が深く関わっている。たとえば、《鏡2》(2019)では、チューリップは子供の落書きのような造形をしている。まるの周りに放射状の線を引いたら、多くの人が太陽だとわかるように、この場合での記号とは、標識や絵文字に近い意味合いがある。しかし、2021年10月の個展で発表された《バニー・カクタスの日光不足》(2021)では、(チューリップではないが)以前よりも、実感を持って植物が描かれている。この変化について、同年6月のインタビューが思い出される。

記号化して、単調化していくうちにそういう、絶対にやった方がいいことも削ぎ落されていってしまう。それがもっと後の方だったらいいけど、今はまだ絵をかき始めて何年も経ってない。〔中略〕記号っていうのも、逃げに走っちゃう面があるから、気を付けた方がいいのかなって思ってます。
MIMIC「石井海音インタビュー2021」より(〔中略〕は筆者)

ここでは額縁に落ちる影を描くかどうかの話だったけれど、実際の植物が持っている表情を無視して、雰囲気で描くのも、今の石井にとっては「サボり」になるのだろう。もっと絵が上手くなってから、そうした簡略化をするのは良いけど、今はまだ絵を始めたばかりだから、もっと色んなものが描けるようになりたいと。
石井の話はとてもよく分かるし、絵にも良い影響を与えているように見える。加えて、ぼくにはこれが、石井作品における技術的な尺度と、記号/象徴の差異との密接な繋がりを示しているように思える。一つ補助線を引こう。

アレックス・カッツは、1950年代に頭角を現し、イラスト調のポートレートを描くことから、しばしばポップ・アートの作家として位置づけられる。しかし、ロバート・ストーとのインタビューにおいてカッツは、自身は優れた絵を描くことに興味があり、ポップとは全く別の方向を向いていたと述懐する。そうして、ポップ・アートとの違いを二つの方向から説明する。
第一に、カッツは記号 -signと象徴 -symbolの違いを据える。(原文に従い、ここからは英語表記を併せる。)
たとえば「記号-signは、STOP標識なら「止まれ」と言うもので」、それ以外なにも意味しない。
空なら青色。草原なら緑色。そうした、誰の目にも明らかなイメージ、つまり記号-signを用いるのがカッツにとってのポップ・アートであった。一方、自身はもう少し複雑なものに興味があったと言う。
それが象徴 -symbolである。象徴 -symbolは、一つの意味に収束せず、カッツの描く肖像の背後で揺れ動く。「記号 -signよりもずっと可変的な象徴 -symbolを扱う」こと、これがカッツにおける一つ目のテーゼである。
次にカッツは、技術的な基準を持ち出す。big techiniqueというお茶目な言い方(あえて訳したら、「クソでかテクニック」とかだと思う)で、作家独自のものなので、これは直接引用してしまおう。

絵画の行為性 -performanceには興味を持ったよ。ポロックはかなり良かった、けど、ピカソの《Girl Before a Mirror》(1932)を知って、彼がどんなに良く描けるか本当にわかったとき……実際、35歳か40歳くらいまでは、big techniqueなんて身につかないよ、どれだけ良い作家でもね。
ピカソの初期の絵は技巧的だったし、ぼくにとっては、かなり不安定なものだ。彼の偉大なキュビズム絵画でさえ、big techniqueとは言えない。彼が50代になって《Girl Before a Mirror 》を描くと――あれはbig techiniqueだ。ぼくにとっては、まったく素晴らしかったな、あれがぼくのやりたいことだったんだ。

マティスはbig techiniqueを持っている。ぼくは、絵画の適切な鑑賞方法を学ぶのに3、4年かかった。美術学校で、先生が 「マティスを見なさい 」と言ったよ。あんなに上手く描けるわけない!ほんとに、気が遠くなったよ。あれはbig techniqueだった。

だから、それがぼくのマインドセットだ、big techiniqueとsmall technique。こういうマインドは、創造という点でも、ファッションやスタイルという点でも働く。ポップ・ペインティングには素晴らしいものもあるけど、ぼくの目は他のものに向いていたんだ。
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(訳は筆者による)

以前行ったインタビューで、石井は自身の絵を「遠くに投げたい」と言った。絵が何年も残ってほしいことを、遠くに投げる。と表現するのは、石井らしい感覚だと思う。
なにか、現在とは別の時制へと作品を投企するような、主体的なニュアンスが感じ取れる。今、こことは異なる場所へ、賽の目のように、作品は投げ入れられる。
美術館などで普段観る作品は、そうして数々の時代へと投げ出され、なお現在に残ってきたものなのだ。たしかに、人の見る目は変わるし、絵も老いる。それでも、絵画は、原理的には人よりも永い時間に生きている。時間や場所を越えて、ひとは遠い昔の対象と出会っている。
個展につけられたタイトルには、絵画空間の次元を行き来することとともに、そんな風に時空の歪みを耐え抜いてきた絵画に対する、石井の密やかな憧れと願いが感じ取れる。

象徴 -symbolは、「共に/投げること」を語源とする。
カッツがポップ・アートに与えたような意味での記号 -signは、仮の普遍性を持ち、時代の消費と共にあるという点で、同時代 -contemporary(「時を/共にする」)に向けられたものである。象徴 -symbolとは、そうした記号 -signの持つ可能性を打ち鳴らし、別の位相へと投げ出すものなのかもしれない。

石井が「遠くに投げられる」という絵画にはきっと、そのような、象徴 -symbolとしての力と、カッツがbig techiniqueと呼ぶ技術が宿っているのだろう。そして、石井の絵はそこに向かっているのかもしれない。

最後に、石井の作品のなかで、常に目に見えない記号が一つ存在する。それはまなざしである。ドイグが、舟を自己記号化するように、石井は、閉じた目や、うつろな目のモチーフを記号化する。そして、その目は、石井の絵画固有の儚さや暖かさによってアイデンティファイされてもいる。
石井の手で記号化されたまなざしは、鏡や画中画、窓、また時には、身振りや手振り、絞り袋による線を通して、絵の中をさまよう。少女の目(記号)は、そうした視線の存在を、鑑賞者へと投げ返す象徴(シンボル)なのだ。

 

フカミエリ個展「fictional reality.」

画面の第一印象とは裏腹に、フカミほど現実の経験を率直に表現する人をぼくはあまり知らない。
たとえば、「飛び上がるほど驚いた」とき、現実には飛び上がってはいない。しかし、それを絵に描くとしたら、飛び上がった人物を描いた方が、自分の直面した現実感[リアリティ]にかなっているのではないか。
フカミは、そのように直観した現実をほとんど脚色せずに、物語化しようと試みる。
絵の中にフカミが何人もいたり、おばあちゃんの思い出話に自分の姿が投影されたりするのは、それがフカミの内面的な実感[リアリティ]にかなっているからだ。

しかし、現実的な問題だけでは、フカミの作品は片付かない。
フカミの絵に見られるイメージの多くは、遠い記憶の風景や、夢、無意識下に温存された原体験を想起させる。
裸の人物の様子からは、アダムとイヴをはじめとする、人類創生に関する心的イメージと、家族、あなたとわたしといった、親密な空間が紐付けられる。(《追憶》(2022)や、《つむぐ生命》(2021)、《わたしひとりだけ》(2021))
こうして練り上げられた仮想世界を観ていると、まるで、無意識のイメージ(自分の起源)と、原始的なイメージ(世界の起源)が、ひとところで繋がっているような感覚に襲われる。フカミは、死ぬことは帰っていくことだと言う。生と死、自己と他者、それらをひとつながりの循環的なプロセスの内に見ることが、フカミの絵の世界観に関与している。
わたしとあなたはもともと一つだったのか。どこか一つの場所からやって来たのか。
フカミの作品は、そのような世界認識[リアリティ]と現実の経験[リアリティ]が、一つに出会う場所なのである。

複数の時間、複数の地点、複数の世界線が、生きられたものとして一枚の絵に同居するからこそ、フカミの画面は混沌としている。
脳から産出される情景を、なるべく生きた状態で画面に定着させるには、シナプスの伝達速度に限りなく近い速さで作品を仕上げる必要がある。《月がとても綺麗な日》(2022)は2時間程度で描き上げられている。
必然的に、画面には高発色の色彩と、主観性が強調された生々しい筆触があらわになる。人物モチーフの表現が記号的なのも、フォーマリズム的な関心というよりは、身体が捕捉しやすい適度な解像度があるのかもしれない。
また、これらの表現主義的な特徴においては、東慎也や飯田美穂といった同世代の画家とも近い部分がある。ただ、東はよりアイロニカルで偽悪的な表象を、飯田は自己言及性についての自己言及的態度をそれぞれ用いて、文化的な枠組みをメタに見てから、絵画の技術に折り返して行っているような印象がある。
フカミの作品は、そうした文化的規定性へのこだわりがそこまで強くない。微妙な言い方だが、制度的な問題をジャンプして、神話的な問題を扱っている。

それにしても、これだけ素描きに近いと、ドローイングとの違いがほぼなくなってくるのではないか。フカミに尋ねると、実際ほとんど違わないという。むしろ、ドローイングの方が完成されていて、自身の「記憶とリアリティが結びついていることが分かりやすい」らしい。
それではどうして、油絵なのだろうか。フカミの答えを要約すると以下のようになる。

子供の頃から使っていて、手に馴染んだクレヨンで行うドローイングなら、毎回安定したクオリティで出せる。しかし、油絵は、身体性に伴って絵の出来栄えが変わってくる。現実世界は一回きりのことが毎日起こる。その場その場で対応していくしかない。油絵ではそれと同じことが一番出来る。絵の具は流動的で、発色やオイルの伸び方もその都度変わる。生き物には無機顔料を、死んでるものには有機顔料を用いてみたりと、その時々の状況に応じて、使うものも変化するし、それに合わせて、イメージも変わっていく。
(事前インタビューのメモから)

この場合、扱いづらい油絵の具は、外界・他者との接触に見立てられている。そうした他者性を媒介することで、自己・作品は否応なしに変容を要請される。
フカミの主観性[リアリティ]には、あらかじめ他者性が前提されているのだと言える。
この点は重要である。これまでの特徴では、フカミは“自分の”内面世界を描いているように印象付けられる。一方で、フカミはその“自分”を外側から呼び込んでもいる。
展示という公共空間で作品を見せるのだから当然だが、フカミは他者の目が織り込まれた自分というものに自覚的である。フカミの作る物語[リアリティ]は、他者との交渉に開かれた陶酔の隙間にあるのだ。

それでも、こうした主観主義的な絵画形式には、批判も予想される。
ハル・フォスターは、内面的な表現を重視する人々が、特権的に扱う「無意識」の考え方を疑問視する。そして、自己が、そのインスピレーションや動機の段階から、いかに文化的に構築されているかということに対して、表現主義者が無邪気であるか、露悪的に振舞っていると考えている。フォスターによれば、こうした作家が扱う直観的な表現は、既存の美術史によって完全にコード化された類型の一つでしかない。
こうした見解は、表現(あるいは実存)を重んじる芸術家がひとしなみに被ってきた批判である。
実際のところ、フカミの作品は、どこかで見たようなものに映ってしまう危うさもある。
たとえば、個人的な実存や情緒に直接的な形式を与えるという点では、小林正人や杉戸洋、OJUN、イケムラレイコといった先行世代の画家も同じことをしている。これは、あくまでも理念的な部分での連想ではあるが、具体的な表現においても一部言える。たとえばフカミ《灰色の故郷。》(2022)における木の描きぶりは、OJUN展「飛び立つ鳩に、驚く私」、鉛筆のタッチは杉戸の《three roofs》などを彷彿とさせる。
そうした類似性が、たとえば愛や影響の次元で映るか、世界観として劣ったものになってしまうかは、フカミ自身の作品の強度による。一方で、イメージを生のまま定着させる即時性は、どうしても絵を記号的に荒く留めてしまう可能性もある。先のテキストで石井が述べているように、記号化は単調化にも通じている。そこで、技術的着地点をどこに持っていくかは難しい問題なのではないか。これは《思い出したら》(2022)に出てくるネコが、ぱっと見て、ネコと分かりづらかったり、花の活き活きとしたそよぎが、いまいち伝わらない、という単純な話である。フカミのリアリティが十分表現出来ているから良いのか、それとも万人にわかるように描けた方が良いのかはわからない。しかし、エドヴァルド・ムンクでも、シャガールでも、ミリアム・カーンでも、ちゃんといい塩梅で描くような気がする。
とはいえ、フカミ自身は既に方向を定めているのかもしれない。人物の描きぶりには変化が起こっている。はじめは意識して記号的に描こうとしていたものが(《SUKI》(2022))、少しずつ顔に表情が付いたり、装飾品が付いたりして、豊かになっているのだ。
ぼくの疑問に留まらず、フォスターの批判も、フカミは簡単に乗り越えてしまうだろう。

さて、本稿でぼくは、リアリティを、現実感や世界認識と、いろいろ読み下した。
フカミに、リアリティを自分で訳すとしたら何になると思うか聞くと、「混沌」と返ってきた。「真実」と迷っていたので、今日聞いたら全然別の答えが返ってくるかもしれない。けれど、「混沌」はとてもよくわかる。
フカミの経験した現実は、内面的な実感と、世界への認識と、記憶によって混ざりあい、絵の具やキャンバスという外界との接触を通じて、一つの物語世界を作り出す。
一つの平面世界に、複数の生[リアリティ]が生きられる。
たしかに、混沌[リアリティ]だ。

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Artists

後藤 夢乃 / Yumeno Goto

後藤夢乃 / Yumeno Goto

Profile

後藤夢乃 / Yumeno Goto

1996年 東京都出身
2019年 女子美術大学 卒業
2022年 東京藝術大学大学院美術研究科修士課程油画専攻第一研究室修了

主な展示歴

【グループ展】
2022
biscuit gallery first anniversary exhibition「grid」biscuit gallery, 東京

受賞歴

2019
-卒業制作 女子美術大学美術館奨励賞
-加藤成之記念賞(総代)
-O氏記念賞
-第55回神奈川県美術展 準大賞

Concept

綺麗な絵の具から凄い色を抽出してオイルと光を調合すること。魔術の目的が神話の再現にあること。

私は模倣ではなく霊感を降ろす、つまり魔術行為によって絵画で神話を再現する。
欧州古代の多神教世界、女神崇拝を復活させた現代魔女の信仰する世界を下地に、神話を再構成する。

幻想的な世界を描きながら、鑑賞者を“あちら側”の世界に誘うのではなく、絵画が“こちら側”の世界へ来ようとしていることを意識して制作していて、それは私がこの世界に立って絵を描いていることの姿勢である。

暗闇でじっと見る木の枝がいつも見えていない色に見えてくるように、普段見えない色を見つめながら描いている。

https://www.instagram.com/yumenorb/

 

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NEWS

【News】長島伊織 個展「ノンフィクション・イメージ」/山田康平個展「それを隠すように」

このたび、biscuit galleryでは現代美術作家、⻑島伊織による個展「ノンフィクション・イメージ」、山田康平による個展 「それを隠すように」を同時開催致します。

⻑島伊織と山田康平は、武蔵野美術大学を2020年に卒業した若手美術作家です。 また、この春より同じアトリエにて制作活動をともにするなど、アーティスト同士深い関係性を築いております。

本展では、biscuit gallery3フロアのうち、各1フロアを使った個展形式の展覧会に加え、2人の作品が同居して展示されるフロアによって構成されます。
現在の若手現代美術シーンで注目を集める2名の新作にご注目ください。

長島伊織個展「ノンフィクション・イメージ」メインビジュアル

山田康平個展「それを隠すように」メインビジュアル

長島伊織 | Iori Nagashima

-略歴-
1997年 大阪府出身。
2020年 武蔵野美術大学油絵学科卒業。

インターネットで見かけた印象的な画像や、映画のシーンなど、「どこかで見た物語」をモチーフとする。「見えたこと/見えないこと」をテーマに、油絵ならではのストロークを用いて時に忠実に再現し、時にはあいまいに塗りつぶしながら、記憶化したイメージを絵画に転換する。

山田康平 | Kohei Ymada

-略歴-
1997年 大阪府出身。

2020年 武蔵野美術大学油絵学科卒業
2022年 京都芸術大学修士課程美術工芸領域油画専攻修了

「私は絵を描く時に、オイルを画面にたっぷりと垂らしてから筆を動かし始める。そうすることで、画面の中ではノイズを保ちながら、絵の具が滲み、垂れ、混ざることで様々な記憶、記号が湧き上がってくる。四角い画面の中で絵にするために、形になるものとならないものの行き来を画面の中で行っている。」

作品は抽選販売を予定しております。
※詳細は会期直前に配信予定のメルマガを参照ください。

開催概要

長島伊織
個展「ノンフィクション・イメージ」

会場:biscuit gallery
会期:2022年5月26日(木)〜6月12日(日)
時間:13:00〜19:00(土日:12:00〜18:00)
※月〜水休
入場:無料
主催:biscuit gallery
URL:https://biscuitgallery.com

山田康平
個展「それを隠すように」

会場:biscuit gallery
会期:2022年5月26日(木)〜6月12日(日)
時間:13:00〜19:00(土日:12:00〜18:00)
※月〜水休
入場:無料
主催:biscuit gallery
URL:https://biscuitgallery.com

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Note

奥岡新蔵氏によるテキスト

「アーティストが表現者であるように、ギャラリーもまた表現者である」と筆者は信じているタイプなのですが、その意味でいうと、それがどういったものであるかは後述するとして、今回こうして1周年を迎えたbiscuit galleryの軌跡を振り返ると、そこにもまた一つの表現、創造、あるいは信念のアウトプットのようなものが見出せるように思えます。

アーティストは主には作品によって自らのアイデンティティを示しますが、ではギャラリーの個性とはどこに宿っているのか、何が彼ら/彼女らを他と線引きし、際立たせ、特徴付け、そしてそれはどのように表現されるのでしょうか。もちろん答えは人それぞれでしょうけれど、とはいえ一つだけ例を挙げるなら、それはオーナーもしくはディレクターの審美眼というか、アーティストを選ぶにあたって働くレギュレーションの有無であり、また展覧会という場所をクリエイトすることによってこそではないかと考えます。

では、数ある若手ギャラリーのうち、なかでもbiscuit galleryのIDとはいったい何か。少し婉曲に言うなら、それは時代に対する貪欲さのように思います。現在進行形で形成され、展開されている日本のアートシーンを捉え、分析し、マッピングすること、しかもそれらを大きなスケールと速度でやってのける行動の根っこにある貪欲さこそ、biscuit galleryの魅力であり強さの由来のように思うのです。「今、この時代にはどんなアーティストがいるのか?」という純粋無垢な問いから歩みをスタートさせる、言わば時代と呼応しながらスタイル・メイクをするこのギャラリーの守備範囲は、だからこそ一見すると一つのギャラリーが抱えるには手に余るほどに広く見えますが、とはいえそれは無作法の所業ではなく、もう少し視点を高くすると違って見えて来るように思います。

たとえば、2000年代初頭の中国で生まれたVitamin Creative Spaceというプレイヤーがいます。このスペースは中国の伝統的な哲学・思想・文化と現代美術の関係をスタディし、マッシュアップさせた活動を展開させ、今やスペース自身もそこからキャリアをスタートさせたアーティストも国際的なステージに立つほどになりました。先ほどの「もう少し高い視点」とは、つまりこのプレイヤーが持っているような世界観であり、言い換えるならば、グローバルな世界とローカルな自分自身の関係性を俯瞰できるポイントのことです。

現在、私たちの世界観は一見すると非常にシームレスになり、ボーダレスになり、グローバルという一つのマス・ソサエティーへ再定義されつつあるように思います。80年代からエドワード・サイードらの言説によって多様性の議論は醸造され、ネットカルチャーやメタバース的な発想は質量に隔たれた世界から新しい統合的な場所性を示唆し、または地球規模の課題の登場などによって「海の向こうの世界」もしくは「私たちとは関係がなかった(ように見えた)世界」との繋がりが生まれるなど、いろいろなことの積み重ねによって私たちは新たに「グローバルな世界で生きている私たち」という人称を獲得している、というふうに筆者は感じます。

だからこそ、何をするにも、今や世界的な水準やルールが求められがちです。そして、その「大きな世界観」の認識必要性は、きっとアートも同じなのでしょう。現代美術は間違いなく西欧を拠点に生まれ、広がり、保たれている領域ですが、とはいえ門戸自体は非西欧圏にももちろん開かれ、今やグローバル(=西欧圏)とローカル(=非西欧圏)の距離は以前よりもずっと近づいたと言えるでしょう。では、そんなより大きなステージに立つとき、そして日本人という立場から美術に関わるときにはどんなアティチュードが必要になるでしょうか。思うに、西欧のプレイヤーから学び過ぎることはかなずしも利益ばかりでないように感じます。世界へ足を一歩か二歩進めたとき、そこにはすでに無数のプレイヤーがおり、彼ら/彼女らは分厚い、長い時間をかけてエディットされてきた自分たちの(つまり西欧人の)美術の歴史という地面にしっかりと足を支えられ、かつ話の全てはそれに沿って進んでいることに気がつくはずです。要するに、たとえその気がなくとも、西欧のプレイヤーから学ぶことが多ければ多いほど、あるいはそれを行動に移せば移すほど、それは単なる「向こうの人たち」のイミテーションとして認識されてしまう可能性が高いように懸念するのです。

だいぶ逸れてしまいましたが、しかし話はbiscuit galleryの表現性、またそのアーティスト・セレクトの幅の広さであったと思います。先の話を踏まえると、アートのプレイヤーに必要なことの一つは「大きな世界観」の認識です。そして、その次には、思うにポジショニングの確認でしょう。日本というローカルにいること、あくまでも世界の一部分に過ぎない場所にいることの自覚であり、また「大きな世界で戦うため、自分が持っているもののうちで活かせるものはいったい何か」という問いでしょう。周りくどくて恐縮ですが、言いたいのは、biscuit galleryのこの1年の活動はある種のエクスプローラではないか、ということです。

より大きな世界で戦おうとするとき、またそのための準備をしようとするとき、これまでの話の通り必要なのは身の回りの世界を知ることです。そしてギャラリストの仕事とは、その多くがアーティストとともに実現されます。「世界のアートシーンにいくため、まずは今の時代の自国のアート、アーティストを知る」というPoC的なアクションが、この1年を通してbiscuit galleryが実践してきたことのように思うのです。先ほどの「時代に対する貪欲さ」とは、つまり、自分が生きている時代とそこにいるアーティストを徹底的にスタディするためのエネルギーに他なりません。冒頭のフレーズに戻ると、もはや言わずもがなかもしれませんが、biscuit galleryが描いているのはこの国の、そしてこの時代の現代美術という、あまりにも王道的なテーマに基づいたものであると、筆者はそのように考えています。

奥岡新蔵

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NEWS

【News】石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」

このたび、biscuit galleryでは石井海音個展「warp」、フカミエリによる個展「fictional reality」を同時開催致します。

石井海音個展「warp」は、ポートレートの作品を中心に、biscuit gallery1階、2階の2フロアで開催されます。

石井海音個展「warp」メインビジュアル

石井は自身の絵を「遠くに投げたい」と語ります。絵が何年も残ってほしいことを、遠くに投げる。と表現するのは、石井らしい感覚だと思います。現在とは別の時制へと作品を投企するような、主体的なニュアンスが感じ取れます。今、こことは異なる場所へ、賽の目のように、作品は投げ入れられるのです。
美術館などで普段観る作品は、そうして数々の時代へと投げ出され、なお現在に残ってきたものです。たしかに、人の見る目は変わるし、絵も老いる。それでも、絵画は、原理的には人よりも永い時間に生きています。時間や場所を越えて、ひとは遠い昔の対象と出会っています。
個展につけられたタイトル「warp」には、絵画空間の次元を行き来することとともに、そんな風に時空の歪みを耐え抜いてきた絵画に対する、石井の密やかな憧れと願いが感じ取れます。

石井海音《幽体離脱》2022年

 

フカミエリによる個展「fictional reality」では「fiction」をテーマに新作のペインティングを発表いたします。
展示会場はbiscuit galleryの3階フロアです。

フカミエリ個展「fictional reality」メインビジュアル

フカミエリは絵画について、また現代に生きる自分にとって可能な絵画について、美術の系譜のみならず自身の時代や社会、文化を踏まえながら模索し、実践しています。シンプルな顔つきの、どこかヘタウマの流れを感じさせる人物が描かれた作品の多くは、作家の身の回りの出来事、家族や他者との関わり、恋や自分が見た夢といったパーソナルな世界を描いたものだと本人は語ります。
日常における疑念や気づき、私たちが日々生きていく中で向き合ってく曖昧で微妙な内面の運動を捉え、かつ幻想性を交えた絵画化するフカミエリの姿勢は、キルヒナーやムンクといった表現主義の画家らを連想させるでしょう。しかし本人は美術の系譜を物語る側に立つことより、むしろ恋や自然の摂理を歌い上げたヘレニズム文学のようにあくまでも生活者の側に立ち、そこにあるリアリティを絵画として提示することをモットーにします。だからこそ、フカミエリの作品は同時代の感性に呼応し、日常をあらためて観照させるきっかけとなる力を持つのではないでしょうか。

フカミエリ《discover.》2022年


岡本秀(Shu Okamoto)によるテキストはこちら

 

アーティストプロフィール

石井海音 | Amane Ishii

1994年、大阪府出身。

窓、鏡、画中画を描く。その中を自由に動く少女たちのように、絵画自身もまた、時代や場所、技術をワープしてきたものである。今の時代、文化で生きる私にはどんな絵が描けるのだろうか、と日々考える。

フカミエリ | Eri Fukami

大阪生まれ
東京藝術大学油画科在学中

自分と世界における「こころの在りか」をテーマに制作している。
人間の意識を作っているのはなんだろうか。とある瞬間に、デジャヴを感じたり。夢の中で何度も繰り返される光景を見たり。「なにか」に出会って感動したり。私達が、意識せずとも。こころが、感情が、記憶が、私よりも正確に「世界の在りか」を教えてくれる。

開催概要

石井海音個展「warp」

会場:biscuit gallery 1階〜2階
会期:2022年5月5日(木)〜5月22日(日)
時間:13:00〜19:00(土日祝:12:00〜18:00)
※月〜水休
入場:無料
主催:biscuit gallery

フカミエリ個展「fictional reality」

会場:biscuit gallery 3階
会期:2022年5月5日(木)〜5月22日(日)
時間:13:00〜19:00(土日祝:12:00〜18:00)
※月〜水休
入場:無料
主催:biscuit gallery

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中風 森滋 / Shinji Nakakaze

中風 森滋 / Shinji Nakakaze

Profile

中風 森滋 / Shinji Nakakaze

1994年 千葉県松戸市生まれ

東京藝術大学大学院美術研究科 卒業

主な展示歴

【グループ展】
2022

第70回東京藝術大学 卒業・修了作品展 東京藝術大学, 東京
2020
「MITSUKOSHI×東京藝術大学 夏の芸術祭2020」日本橋三越 , 東京
2019
-「art.0 芸術と都市の誕生」ライブペイント 大手町プレイス・ウエストタワー ,  東京
-「藝大アーツイン丸の内2019」オークション会 丸の内丸ビル , 東京
2018
「BE MY BABY」東京都美術館 , 東京
2015
-「蔵コレ」東京藝術大学, 東京
-「家」取手, 茨城

受賞歴

2016
安宅賞

Concept

私は現実の情報量についていけず、想像力も満足に働かない。簡略化されて、整理された二次元のデフォルメ された世界の方が、私にとって様々なリアリティを感じられた。 しかし、現実を諦めるべきじゃないと思っている。どんなに人と比べて劣った現実でも、か細いリアリティを手繰り 寄せて感じとることに生きる意義を感じている。

私の場合、表現は、リアリティを感じられる二次元から始めるしかない。私は普段pcやノートに、SNSにあげるた めに生みだしたような物語のないキャラクターを落書きするが、キャラクターは自分自身では自立できないほど 弱々しく、わたしに少し似ているようにも思う。私は線描の体であるその子を絵画の中で、ただの線に還るように 解きほぐし解放することを試みる。雑多な要素をほぐし、真に本質的なものを探るなかで、リアリティを少しでも 感じたいと思っている。

私ほど弱さをさらけ出し続ける人もそういないと思う。私は私の表現のオリジナリティや、アイデンティティをその 弱さの中にこそ見出だしたい。

https://www.instagram.com/oyasumi_sleepy/

 

 

カテゴリー
Artists

山中 雪乃 / Yukino Yamanaka

山中 雪乃 / Yukino Yamanaka

Profile

1999年 ⻑野県生まれ
2021年 京都芸術大学 美術工芸学科油画コース 卒業
2021年 京都芸術大学大学院 美術工芸領域 油画領域 入学 (在学中)

主な展示歴

【個展】
2022
-「attitude」 biscuit gallery, 東京
-「figure」 haku kyoto, 京都

【グループ展】
2022
– biscuit gallery first anniversary exhibition「grid」biscuit gallery, 東京
2021
-「ARTISTS FAIR KYOTO 2021」京都文化博物館, 京都
-「formation」新宿眼科画廊, 東京
2019
浮遊する変体vol.3 「虚実皮膜」東京藝術大学 立体工房 (東京)

Concept

絵画をモチーフ、写真、支持体、様々なレイヤと自分の視点を通して構成する。そうして生まれる操作と偶然から「存在」について考える。

https://www.instagram.com/yukino_yamanaka/

カテゴリー
Artists

高尾 岳央 / Takehiro Takao

高尾 岳央 / Takehiro Takao

Profile

高尾 岳央 / Takehiro Takao

1998年 大阪府出身
2022年 京都芸術大学美術工芸学科 卒業
2022年 京都芸術大学大学院美術工芸学科大学院 入学

主な展示歴

【個展】
2022
「←東京」, biscuit gallery, 東京

【グループ展】
2022
biscuit gallery first anniversary exhibition「grid」biscuit gallery, 東京
-KUA ANUAL 2022「in Cm | ゴースト, 迷宮, そして多元宇宙 in Cm | Ghost, Labyrinth and Multiverse」 ギャルリオーブ(京都芸術大学)、東京都美術館
2021
– 台北國際藝術博覧會「ART TAIPEI」, 台北
-「ART drops 」大阪・堺市
-「RENACER」神戸元町 歩歩琳堂画廊, 神戸
– 阪急大阪メンズ館 展示, 大阪
-「BE AT STUDIO HARAJUKU」ラフォーレ原宿, 東京2019 
「Dobrese展」ギャルリオーブ(京都芸術大学) , 京都

Concept

現代における風景画は何かをテーマに制作しています。写真や現代に溢れる文字、自分が書いたメモなどがモチーフになっている。
近づくと鮮明になり、離れるとボヤける、絵の具を足せば途切れる事なく線を引く事のできる特性を持つエアブラシを主に用い制作している。

https://www.instagram.com/takao_takehiro/

カテゴリー
Collection

LIAO YUAN YI《Draw The Nautical Chart 060》

LIAO YUAN YI《Draw The Nautical Chart 060》

「Draw The Nautical Chart」シリーズは、布の上に絵画、刺繍、スタンプ、コラージュの技法を用いた作品である。
「コミュニケーションは必ずしも言語的なものではなく、自身のドローイングのようなもの」であり、これらのドローイングには、自分自身、自分と他者、他者同士の繫がりや関係性を描いている。
言語や宗教、人種など、国や地域によって異なる存在を画面に落とし込み、関係性を表現している。

私の作品は実物を変換することによってイメージに落とし込んでいる。個人的な経験や記憶を再現することで、感情や概念が非言語的にコミュニケーションできるようになっている。
創作の過程で、想像力には限界があることに気が付くが、その先の領域に到達できるよう、さらに現在の事象を飲み込んで昇華させている。

「Draw The Nautical Chart」シリーズは単一の作品ではなく、複数のドローイングが連携し、繋がりによっても構成されている。複数のドローイングを通して、思考の方向性を示し、その方向性の中で私の世界観が作られている。それぞれの作品には、様々な素材を使っており、作品の世界を拡張させている。

LIAO YUAN YI リャオ・ユエン・イー

LIAO YUAN YI

「biscuit gallery first anniversary exhibition grid」展示風景より

《Draw The Nautical Chart 060》※Detail

《Draw The Nautical Chart 060》※Detail

《Draw The Nautical Chart 060》※Detail

《Draw The Nautical Chart 060》※Detail

「biscuit gallery first anniversary exhibition grid」展示風景より

作品概要

LIAO YUAN YI リャオ・ユエン・イー
タイトル:《Draw The Nautical Chart 060》※額付
サイズ:52.5×52.5×4.5cm
メディウム:糸、アクリル、ペーパー、色鉛筆
制作年:2022年
備考:biscuit gallery first anniversary exhibition「grid」出品作品

 

biscuit gallery collection

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