石井海音個展「warp」/フカミエリ個展「fictional reality.」
展覧会ページ
https://biscuitgallery.com/warp-fictionalreality/
前文
2019年から、MIMICというリサーチプロジェクトを企画している。MIMICでは、主メンバーの熊野陽平と共に、身近なアーティストのリサーチとアーカイブを通じて、個人の抱える複雑さを、なるべく形を保ったまま記述していく方法を探っている。
第一回で、石井海音を対象にした由もあって、今回は石井とフカミエリ同時開催個展にテキストを寄せることになった。
余計な前置きになる恐れを承知で、基本的な視座を提示したい。その方が、後の話が伝わりやすいだろう。
ぼくは作家の、個人的な技術が好きだ。作品を通じて、その人ならではの尺度や、その人だからこそ持ちうる、固有の「わかりづらさ」について考えることに、とても関心がある。
たとえば絵画作品において、シャープでキレの良い線を引けることは、高い技術力の証である。しかし、誰もがそうした線を目指すわけではない。もしかすると、ひょろひょろの弱々しい線が、その人にとって絶対に必要なものかもしれない。
単に弱々しいのではない。“この”弱々しい線があり、作家はその固有性に向かっている。それは、新しさや公的評価といった次元とは別のレベルで立ち上がる技術[クオリティ]の問題である。そして、こうした固有の「わかりづらさ」は、一見して類型的だったり、未熟だったりすることはあっても、まず独りよがりなものではない。
とはいえ、そうした個人の技法、価値観は、その人以外の言葉に翻訳できないものかもしれない。あるいは、他人に理解されようとするのを意図的に避ける“必要がある”ものかもしれない。
アーティストの固有性を、強調された個性や構築主義的な文脈ではなく、このような「わかりづらさ」を前提に語る方法を考えたいというのが、ぼくの根本的な問題意識である。
以上の関心を踏まえて、石井とフカミの作品を観ていく。
同時に、現在進行形で活動を続けている以上、作家について確定的なラインを引くこともやはり避けたい。したがって、話はやや留保的になるだろう。
二人展ではなく、同時開催個展なので、二人の作品を無理に関連づけることはせず、個別に書く。1、2階が石井、3階がフカミのセクションという事なので、まずは石井の作品について考えることにしよう。
石井海音個展「warp」
今回、石井はポートレートの絵を展示するという。アトリエを見に行ったら、100号ほどの大きな画面に、いつもの画風で何枚かの人物画と、それを観る少女が描きこまれていた。作品の周りには、大作に描かれた人物画を切り取ってきたような小品が置いてある。
なるほど、画中の人物画が、現実の展示空間に並ぶらしい。これまでも石井は、絵に登場するモチーフを、画中画や他の作品で反復していたから、自然な流れだとぼくは思った。
石井の作品は、複数の要素が乱反射的に絡み合っているため、全体像を語るのが難しい。
それでも、本展に関連して一つ取り出すとしたら、記号と象徴をめぐって考えてみるのが良いかもしれない。
たとえばピーター・ドイグは、舟やグリッドを、描き方、サイズ、あてはめるモチーフなどを入れ替えて、複数の作品にわたって展開する。そうすることで、舟やグリッドのイメージは、ドイグ自身の手で記号化される。舟はドイグの象徴になる。
同様に石井の作品でも、少女の目や、手の指し示し、おばけ、ケンタウロス、チューリップといったイメージが、複数の絵で繰り返し現れる。好きな図像を多用するのは変な話ではないが、画中画や鏡などの参照性の高いモチーフを媒介して、やはり意識的な記号化が行われている。
また、近作における石井の制作態度の変化にも、記号が深く関わっている。たとえば、《鏡2》(2019)では、チューリップは子供の落書きのような造形をしている。まるの周りに放射状の線を引いたら、多くの人が太陽だとわかるように、この場合での記号とは、標識や絵文字に近い意味合いがある。しかし、2021年10月の個展で発表された《バニー・カクタスの日光不足》(2021)では、(チューリップではないが)以前よりも、実感を持って植物が描かれている。この変化について、同年6月のインタビューが思い出される。
記号化して、単調化していくうちにそういう、絶対にやった方がいいことも削ぎ落されていってしまう。それがもっと後の方だったらいいけど、今はまだ絵をかき始めて何年も経ってない。〔中略〕記号っていうのも、逃げに走っちゃう面があるから、気を付けた方がいいのかなって思ってます。
MIMIC「石井海音インタビュー2021」より(〔中略〕は筆者)
ここでは額縁に落ちる影を描くかどうかの話だったけれど、実際の植物が持っている表情を無視して、雰囲気で描くのも、今の石井にとっては「サボり」になるのだろう。もっと絵が上手くなってから、そうした簡略化をするのは良いけど、今はまだ絵を始めたばかりだから、もっと色んなものが描けるようになりたいと。
石井の話はとてもよく分かるし、絵にも良い影響を与えているように見える。加えて、ぼくにはこれが、石井作品における技術的な尺度と、記号/象徴の差異との密接な繋がりを示しているように思える。一つ補助線を引こう。
アレックス・カッツは、1950年代に頭角を現し、イラスト調のポートレートを描くことから、しばしばポップ・アートの作家として位置づけられる。しかし、ロバート・ストーとのインタビューにおいてカッツは、自身は優れた絵を描くことに興味があり、ポップとは全く別の方向を向いていたと述懐する。そうして、ポップ・アートとの違いを二つの方向から説明する。
第一に、カッツは記号 -signと象徴 -symbolの違いを据える。(原文に従い、ここからは英語表記を併せる。)
たとえば「記号-signは、STOP標識なら「止まれ」と言うもので」、それ以外なにも意味しない。
空なら青色。草原なら緑色。そうした、誰の目にも明らかなイメージ、つまり記号-signを用いるのがカッツにとってのポップ・アートであった。一方、自身はもう少し複雑なものに興味があったと言う。
それが象徴 -symbolである。象徴 -symbolは、一つの意味に収束せず、カッツの描く肖像の背後で揺れ動く。「記号 -signよりもずっと可変的な象徴 -symbolを扱う」こと、これがカッツにおける一つ目のテーゼである。
次にカッツは、技術的な基準を持ち出す。big techiniqueというお茶目な言い方(あえて訳したら、「クソでかテクニック」とかだと思う)で、作家独自のものなので、これは直接引用してしまおう。
絵画の行為性 -performanceには興味を持ったよ。ポロックはかなり良かった、けど、ピカソの《Girl Before a Mirror》(1932)を知って、彼がどんなに良く描けるか本当にわかったとき……実際、35歳か40歳くらいまでは、big techniqueなんて身につかないよ、どれだけ良い作家でもね。
ピカソの初期の絵は技巧的だったし、ぼくにとっては、かなり不安定なものだ。彼の偉大なキュビズム絵画でさえ、big techniqueとは言えない。彼が50代になって《Girl Before a Mirror 》を描くと――あれはbig techiniqueだ。ぼくにとっては、まったく素晴らしかったな、あれがぼくのやりたいことだったんだ。
マティスはbig techiniqueを持っている。ぼくは、絵画の適切な鑑賞方法を学ぶのに3、4年かかった。美術学校で、先生が 「マティスを見なさい 」と言ったよ。あんなに上手く描けるわけない!ほんとに、気が遠くなったよ。あれはbig techniqueだった。
だから、それがぼくのマインドセットだ、big techiniqueとsmall technique。こういうマインドは、創造という点でも、ファッションやスタイルという点でも働く。ポップ・ペインティングには素晴らしいものもあるけど、ぼくの目は他のものに向いていたんだ。
Carter Ratcliffe, Robert Storr, Iwona Blazwick, “Alex Katz:” Phaidon Press, 2007, 14-15
(訳は筆者による)
以前行ったインタビューで、石井は自身の絵を「遠くに投げたい」と言った。絵が何年も残ってほしいことを、遠くに投げる。と表現するのは、石井らしい感覚だと思う。
なにか、現在とは別の時制へと作品を投企するような、主体的なニュアンスが感じ取れる。今、こことは異なる場所へ、賽の目のように、作品は投げ入れられる。
美術館などで普段観る作品は、そうして数々の時代へと投げ出され、なお現在に残ってきたものなのだ。たしかに、人の見る目は変わるし、絵も老いる。それでも、絵画は、原理的には人よりも永い時間に生きている。時間や場所を越えて、ひとは遠い昔の対象と出会っている。
個展につけられたタイトルには、絵画空間の次元を行き来することとともに、そんな風に時空の歪みを耐え抜いてきた絵画に対する、石井の密やかな憧れと願いが感じ取れる。
象徴 -symbolは、「共に/投げること」を語源とする。
カッツがポップ・アートに与えたような意味での記号 -signは、仮の普遍性を持ち、時代の消費と共にあるという点で、同時代 -contemporary(「時を/共にする」)に向けられたものである。象徴 -symbolとは、そうした記号 -signの持つ可能性を打ち鳴らし、別の位相へと投げ出すものなのかもしれない。
石井が「遠くに投げられる」という絵画にはきっと、そのような、象徴 -symbolとしての力と、カッツがbig techiniqueと呼ぶ技術が宿っているのだろう。そして、石井の絵はそこに向かっているのかもしれない。
最後に、石井の作品のなかで、常に目に見えない記号が一つ存在する。それはまなざしである。ドイグが、舟を自己記号化するように、石井は、閉じた目や、うつろな目のモチーフを記号化する。そして、その目は、石井の絵画固有の儚さや暖かさによってアイデンティファイされてもいる。
石井の手で記号化されたまなざしは、鏡や画中画、窓、また時には、身振りや手振り、絞り袋による線を通して、絵の中をさまよう。少女の目(記号)は、そうした視線の存在を、鑑賞者へと投げ返す象徴(シンボル)なのだ。
フカミエリ個展「fictional reality.」
画面の第一印象とは裏腹に、フカミほど現実の経験を率直に表現する人をぼくはあまり知らない。
たとえば、「飛び上がるほど驚いた」とき、現実には飛び上がってはいない。しかし、それを絵に描くとしたら、飛び上がった人物を描いた方が、自分の直面した現実感[リアリティ]にかなっているのではないか。
フカミは、そのように直観した現実をほとんど脚色せずに、物語化しようと試みる。
絵の中にフカミが何人もいたり、おばあちゃんの思い出話に自分の姿が投影されたりするのは、それがフカミの内面的な実感[リアリティ]にかなっているからだ。
しかし、現実的な問題だけでは、フカミの作品は片付かない。
フカミの絵に見られるイメージの多くは、遠い記憶の風景や、夢、無意識下に温存された原体験を想起させる。
裸の人物の様子からは、アダムとイヴをはじめとする、人類創生に関する心的イメージと、家族、あなたとわたしといった、親密な空間が紐付けられる。(《追憶》(2022)や、《つむぐ生命》(2021)、《わたしひとりだけ》(2021))
こうして練り上げられた仮想世界を観ていると、まるで、無意識のイメージ(自分の起源)と、原始的なイメージ(世界の起源)が、ひとところで繋がっているような感覚に襲われる。フカミは、死ぬことは帰っていくことだと言う。生と死、自己と他者、それらをひとつながりの循環的なプロセスの内に見ることが、フカミの絵の世界観に関与している。
わたしとあなたはもともと一つだったのか。どこか一つの場所からやって来たのか。
フカミの作品は、そのような世界認識[リアリティ]と現実の経験[リアリティ]が、一つに出会う場所なのである。
複数の時間、複数の地点、複数の世界線が、生きられたものとして一枚の絵に同居するからこそ、フカミの画面は混沌としている。
脳から産出される情景を、なるべく生きた状態で画面に定着させるには、シナプスの伝達速度に限りなく近い速さで作品を仕上げる必要がある。《月がとても綺麗な日》(2022)は2時間程度で描き上げられている。
必然的に、画面には高発色の色彩と、主観性が強調された生々しい筆触があらわになる。人物モチーフの表現が記号的なのも、フォーマリズム的な関心というよりは、身体が捕捉しやすい適度な解像度があるのかもしれない。
また、これらの表現主義的な特徴においては、東慎也や飯田美穂といった同世代の画家とも近い部分がある。ただ、東はよりアイロニカルで偽悪的な表象を、飯田は自己言及性についての自己言及的態度をそれぞれ用いて、文化的な枠組みをメタに見てから、絵画の技術に折り返して行っているような印象がある。
フカミの作品は、そうした文化的規定性へのこだわりがそこまで強くない。微妙な言い方だが、制度的な問題をジャンプして、神話的な問題を扱っている。
それにしても、これだけ素描きに近いと、ドローイングとの違いがほぼなくなってくるのではないか。フカミに尋ねると、実際ほとんど違わないという。むしろ、ドローイングの方が完成されていて、自身の「記憶とリアリティが結びついていることが分かりやすい」らしい。
それではどうして、油絵なのだろうか。フカミの答えを要約すると以下のようになる。
子供の頃から使っていて、手に馴染んだクレヨンで行うドローイングなら、毎回安定したクオリティで出せる。しかし、油絵は、身体性に伴って絵の出来栄えが変わってくる。現実世界は一回きりのことが毎日起こる。その場その場で対応していくしかない。油絵ではそれと同じことが一番出来る。絵の具は流動的で、発色やオイルの伸び方もその都度変わる。生き物には無機顔料を、死んでるものには有機顔料を用いてみたりと、その時々の状況に応じて、使うものも変化するし、それに合わせて、イメージも変わっていく。
(事前インタビューのメモから)
この場合、扱いづらい油絵の具は、外界・他者との接触に見立てられている。そうした他者性を媒介することで、自己・作品は否応なしに変容を要請される。
フカミの主観性[リアリティ]には、あらかじめ他者性が前提されているのだと言える。
この点は重要である。これまでの特徴では、フカミは“自分の”内面世界を描いているように印象付けられる。一方で、フカミはその“自分”を外側から呼び込んでもいる。
展示という公共空間で作品を見せるのだから当然だが、フカミは他者の目が織り込まれた自分というものに自覚的である。フカミの作る物語[リアリティ]は、他者との交渉に開かれた陶酔の隙間にあるのだ。
それでも、こうした主観主義的な絵画形式には、批判も予想される。
ハル・フォスターは、内面的な表現を重視する人々が、特権的に扱う「無意識」の考え方を疑問視する。そして、自己が、そのインスピレーションや動機の段階から、いかに文化的に構築されているかということに対して、表現主義者が無邪気であるか、露悪的に振舞っていると考えている。フォスターによれば、こうした作家が扱う直観的な表現は、既存の美術史によって完全にコード化された類型の一つでしかない。
こうした見解は、表現(あるいは実存)を重んじる芸術家がひとしなみに被ってきた批判である。
実際のところ、フカミの作品は、どこかで見たようなものに映ってしまう危うさもある。
たとえば、個人的な実存や情緒に直接的な形式を与えるという点では、小林正人や杉戸洋、OJUN、イケムラレイコといった先行世代の画家も同じことをしている。これは、あくまでも理念的な部分での連想ではあるが、具体的な表現においても一部言える。たとえばフカミ《灰色の故郷。》(2022)における木の描きぶりは、OJUN展「飛び立つ鳩に、驚く私」、鉛筆のタッチは杉戸の《three roofs》などを彷彿とさせる。
そうした類似性が、たとえば愛や影響の次元で映るか、世界観として劣ったものになってしまうかは、フカミ自身の作品の強度による。一方で、イメージを生のまま定着させる即時性は、どうしても絵を記号的に荒く留めてしまう可能性もある。先のテキストで石井が述べているように、記号化は単調化にも通じている。そこで、技術的着地点をどこに持っていくかは難しい問題なのではないか。これは《思い出したら》(2022)に出てくるネコが、ぱっと見て、ネコと分かりづらかったり、花の活き活きとしたそよぎが、いまいち伝わらない、という単純な話である。フカミのリアリティが十分表現出来ているから良いのか、それとも万人にわかるように描けた方が良いのかはわからない。しかし、エドヴァルド・ムンクでも、シャガールでも、ミリアム・カーンでも、ちゃんといい塩梅で描くような気がする。
とはいえ、フカミ自身は既に方向を定めているのかもしれない。人物の描きぶりには変化が起こっている。はじめは意識して記号的に描こうとしていたものが(《SUKI》(2022))、少しずつ顔に表情が付いたり、装飾品が付いたりして、豊かになっているのだ。
ぼくの疑問に留まらず、フォスターの批判も、フカミは簡単に乗り越えてしまうだろう。
さて、本稿でぼくは、リアリティを、現実感や世界認識と、いろいろ読み下した。
フカミに、リアリティを自分で訳すとしたら何になると思うか聞くと、「混沌」と返ってきた。「真実」と迷っていたので、今日聞いたら全然別の答えが返ってくるかもしれない。けれど、「混沌」はとてもよくわかる。
フカミの経験した現実は、内面的な実感と、世界への認識と、記憶によって混ざりあい、絵の具やキャンバスという外界との接触を通じて、一つの物語世界を作り出す。
一つの平面世界に、複数の生[リアリティ]が生きられる。
たしかに、混沌[リアリティ]だ。