「アーティストが表現者であるように、ギャラリーもまた表現者である」と筆者は信じているタイプなのですが、その意味でいうと、それがどういったものであるかは後述するとして、今回こうして1周年を迎えたbiscuit galleryの軌跡を振り返ると、そこにもまた一つの表現、創造、あるいは信念のアウトプットのようなものが見出せるように思えます。
アーティストは主には作品によって自らのアイデンティティを示しますが、ではギャラリーの個性とはどこに宿っているのか、何が彼ら/彼女らを他と線引きし、際立たせ、特徴付け、そしてそれはどのように表現されるのでしょうか。もちろん答えは人それぞれでしょうけれど、とはいえ一つだけ例を挙げるなら、それはオーナーもしくはディレクターの審美眼というか、アーティストを選ぶにあたって働くレギュレーションの有無であり、また展覧会という場所をクリエイトすることによってこそではないかと考えます。
では、数ある若手ギャラリーのうち、なかでもbiscuit galleryのIDとはいったい何か。少し婉曲に言うなら、それは時代に対する貪欲さのように思います。現在進行形で形成され、展開されている日本のアートシーンを捉え、分析し、マッピングすること、しかもそれらを大きなスケールと速度でやってのける行動の根っこにある貪欲さこそ、biscuit galleryの魅力であり強さの由来のように思うのです。「今、この時代にはどんなアーティストがいるのか?」という純粋無垢な問いから歩みをスタートさせる、言わば時代と呼応しながらスタイル・メイクをするこのギャラリーの守備範囲は、だからこそ一見すると一つのギャラリーが抱えるには手に余るほどに広く見えますが、とはいえそれは無作法の所業ではなく、もう少し視点を高くすると違って見えて来るように思います。
たとえば、2000年代初頭の中国で生まれたVitamin Creative Spaceというプレイヤーがいます。このスペースは中国の伝統的な哲学・思想・文化と現代美術の関係をスタディし、マッシュアップさせた活動を展開させ、今やスペース自身もそこからキャリアをスタートさせたアーティストも国際的なステージに立つほどになりました。先ほどの「もう少し高い視点」とは、つまりこのプレイヤーが持っているような世界観であり、言い換えるならば、グローバルな世界とローカルな自分自身の関係性を俯瞰できるポイントのことです。
現在、私たちの世界観は一見すると非常にシームレスになり、ボーダレスになり、グローバルという一つのマス・ソサエティーへ再定義されつつあるように思います。80年代からエドワード・サイードらの言説によって多様性の議論は醸造され、ネットカルチャーやメタバース的な発想は質量に隔たれた世界から新しい統合的な場所性を示唆し、または地球規模の課題の登場などによって「海の向こうの世界」もしくは「私たちとは関係がなかった(ように見えた)世界」との繋がりが生まれるなど、いろいろなことの積み重ねによって私たちは新たに「グローバルな世界で生きている私たち」という人称を獲得している、というふうに筆者は感じます。
だからこそ、何をするにも、今や世界的な水準やルールが求められがちです。そして、その「大きな世界観」の認識必要性は、きっとアートも同じなのでしょう。現代美術は間違いなく西欧を拠点に生まれ、広がり、保たれている領域ですが、とはいえ門戸自体は非西欧圏にももちろん開かれ、今やグローバル(=西欧圏)とローカル(=非西欧圏)の距離は以前よりもずっと近づいたと言えるでしょう。では、そんなより大きなステージに立つとき、そして日本人という立場から美術に関わるときにはどんなアティチュードが必要になるでしょうか。思うに、西欧のプレイヤーから学び過ぎることはかなずしも利益ばかりでないように感じます。世界へ足を一歩か二歩進めたとき、そこにはすでに無数のプレイヤーがおり、彼ら/彼女らは分厚い、長い時間をかけてエディットされてきた自分たちの(つまり西欧人の)美術の歴史という地面にしっかりと足を支えられ、かつ話の全てはそれに沿って進んでいることに気がつくはずです。要するに、たとえその気がなくとも、西欧のプレイヤーから学ぶことが多ければ多いほど、あるいはそれを行動に移せば移すほど、それは単なる「向こうの人たち」のイミテーションとして認識されてしまう可能性が高いように懸念するのです。
だいぶ逸れてしまいましたが、しかし話はbiscuit galleryの表現性、またそのアーティスト・セレクトの幅の広さであったと思います。先の話を踏まえると、アートのプレイヤーに必要なことの一つは「大きな世界観」の認識です。そして、その次には、思うにポジショニングの確認でしょう。日本というローカルにいること、あくまでも世界の一部分に過ぎない場所にいることの自覚であり、また「大きな世界で戦うため、自分が持っているもののうちで活かせるものはいったい何か」という問いでしょう。周りくどくて恐縮ですが、言いたいのは、biscuit galleryのこの1年の活動はある種のエクスプローラではないか、ということです。
より大きな世界で戦おうとするとき、またそのための準備をしようとするとき、これまでの話の通り必要なのは身の回りの世界を知ることです。そしてギャラリストの仕事とは、その多くがアーティストとともに実現されます。「世界のアートシーンにいくため、まずは今の時代の自国のアート、アーティストを知る」というPoC的なアクションが、この1年を通してbiscuit galleryが実践してきたことのように思うのです。先ほどの「時代に対する貪欲さ」とは、つまり、自分が生きている時代とそこにいるアーティストを徹底的にスタディするためのエネルギーに他なりません。冒頭のフレーズに戻ると、もはや言わずもがなかもしれませんが、biscuit galleryが描いているのはこの国の、そしてこの時代の現代美術という、あまりにも王道的なテーマに基づいたものであると、筆者はそのように考えています。
奥岡新蔵